悪人正機

【題意】

 浄土真宗の教義に於いて、悪人の語の意味するところと、悪人の位置づけを明らかにする。

【出拠】

 『本典』「化身土文類」(真聖全二、一四七頁・一四八頁)には、

言汝是凡夫心想羸劣、則是彰為悪人往生機也。
   「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
言若仏滅後諸衆生等、即是未来衆生、顕為往生正機也。
   「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕す

なと、悪人の語・正機の語が出る。また、『愚禿鈔』(同前、四六一頁)には、菩薩・縁覚・声聞・辟支等を浄土の傍機、天・人等を浄土の正機と示されている。

【釈名】

 悪人とは、先の「化身土文類」の文では心想羸劣の凡夫を指す。正機の機とは教法に対しての位置づけを示す語であり、正機とは弥陀法にまさしく適合する存在との意味となる。よって、悪人正機とは、心想羸劣の凡夫こそが弥陀法にまさしく適合している存在であるということを示している。

【義相】

①宗祖に於ける悪人・悪・罪・罪悪等の用例は多いが、以下の三種に分類できる。

 一、「行文類」(同前、三三頁)に

大小聖人・重軽悪人、皆同斉応帰選択大宝海念仏成仏。
    大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

  と、大小の聖人と悪人とが並列されているのは善人・悪人相対の立場であり、その悪人とは、『唯信鈔文意』(同前、六四五頁)に、「十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人」と示される存在である。

 二、「信文類」(同前、六〇頁)に、

一切群生海、自従無始已来乃至今日至今時、穢悪汚染無清浄心、虚仮泊無真実心。
   一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

  と示されているのは一切衆生を全て悪人と位置づけるものであり、この悪人は、自力による報土往生不可能な存在をいう。

 三、「信文類」(同前、五二頁)引用の二種深信の機の深信に

罪悪生死凡夫

  といわれているのは自己の自力無功の信知であり、悪人とは他力の念仏者の意となる。

 なお、「信文類」(同前、七〇頁)引用の『聞特記』に、

  屠謂、宰殺。沽■(うん)売。如此悪人、止由十念便得超往、
   屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはち■(うん)売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、

といわれるのは、一部の社会的階層を悪人と位置づけているようであるが、「化身土文類」で悪人と示される「心想羸劣の凡夫」とは、『観経』に於けるる韋提希という王妃を指し、また「信文類」逆謗除取釈引用の『涅槃経』では、国王である阿闍世が難化の三機すなわち悪人と位置づけられているのであり、宗祖に於いて、社会的階層による善人・悪人の位置づけを見るのは困難である。
 前述の三種のなか、悪人正機の悪人とは、一の善人・悪人相対に於ける悪人であり、成仏道を歩む能力を持つ善人よりも能力を持たない悪人こそを弥陀法のまさしきめあてであることを悪人正機というのである。

② 近時、悪人が救われるということについて、悪の自覚のあるものは宗教的に勝れているので救われ、悪の自覚のないものは宗教的に劣っているので救われないとする説が提出されている。悪の自覚を信機とすれば、必ずしも誤りであるとはいえないが、宗祖に於ける罪悪深重・煩悩具足の自己との表明が、我こそは宗教的優者なりと誇る姿勢を示していると考えることはできない。逆に、『正像末和讃』(同前、五二七頁)の

  無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
  弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ

という一首には、弥陀の光明に照らし出された自己の罪悪性に対する徹底的な慚愧と、その自己にはたらきかけている名号法の超勝性に対する慶嘆とがうたいあげられている。宗祖に於ける悪人・善人の語は、前者を宗教的優者、後者を宗教的劣者と位置づけることを表現する語ではないことに注意をはらっておきたい。

③『西方指南抄』(真聖全四、二二一頁)に示される法然聖人の「罪人なほ生まる、いはんや善人をや。」との言葉と、『歎異抄』第三章(真聖全二、七七五頁)に示される宗祖の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」との言葉の対比から、法然聖人は善正悪傍であり、宗祖は悪正善傍であるとする説がある。しかし、『選択集』(真聖全一、九三〇頁)二門章には、

元暁『遊心安楽道』云、浄土宗意、本為凡夫、兼為聖人。
  元暁の『遊心安楽道』にいはく、「浄土宗の意、本凡夫のためなり、兼ねては聖人のためなり」

とあり、醍醐本『法然上人伝記』(『法然上人伝全集』七八四頁上・七八七頁上)には、

此宗悪人為手本、善人摂也。聖道門善人為手本、悪人摂也。
  この宗は悪人を手本とし、善人まで摂すなり。聖道門は善人を手本とし、悪人をも摂すなり。
善人尚以往生、況悪人乎。
  善人なほもつて往生す、いはんや悪人をや。

とまでいわれ、法然聖人にも悪正善傍の説示がみられるのである。弥陀の救済の正所被が悪凡夫であるというのは浄土教の通規であり、その意は、『本典』「信文類」(真聖全二、ハ八頁)引用の『涅槃経』に出る七子中の病子の譬喩によくあらわれているというべきである。
 法然聖人の「罪人なほ生まる、いはんや善人をや。」の言葉は、悪正善傍に対して善正悪傍と表現されるべきものではなく、『選択集』讃歎念仏章(真聖全一、九七四頁)に、

念仏三昧重罪尚滅す。何況軽罪。
   念仏三昧は重罪なほ滅す。いかにいはんや軽罪をや。

と示されるような滅罪の難易についていわれるものであり、その意では、「信文類」逆謗除取釈(真聖全二、九七頁)に、難化の三機が救済される弘願法を一切の病を治療する醍醐の妙薬に譬えられる宗祖も法然聖人と軌を一にしているといえよう。なお、救済の正所被としての説示は、悪の勧めとも誤解されやすく、そこで対機を限定した口伝にのみ存するのであると考えられる。

以 上

一念多念

〔題意〕

  一念義・多念義両者の誤りを正し、念仏往生の真実義を明らかにする。

〔出拠〕

『一念多念証文』(『真聖全』二・六〇四頁)に

「一念をひがごととおもふまじき事」「多念をひがごととおもふまじき事」(同・六一二頁)

といわれ、最後に

「浄土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり、またく一念往生・多念往生とまふすことなし、これにてしらせたまふべし。」(同・六一九頁)

と結ばれている。

 『一念多念分別事』(『真聖全』二・七六六頁)に

「念仏の行につきて、一念・多念のあらそひ、このごろさかりにきこゆ。これはきはめたる大事なり、よくよくつつしむべし。」

と誠め、最後に

「かへすがへすも、多念すなはち一念なり、一念すなはち多念なりといふことわりをみだるまじきなり。」(同・七六九頁)

と結ばれている。

 その他
    『本典』
    『西方指南抄』
    『口伝鈔』等がある。

〔釈名〕

「一念」は行と信とで釈名が異なる。信の一念とは、「一」は最初、「念」は時剋の義であり、「ときのきわまり」のことで、信相続に対して信初発の時を指す。行の一念とは、「一」は一遍、「念」は称念の義で、多念の称名に対して「一声」の称名をいう。今は『大経』付属の「乃至一念」であるから、「初一声」のこととうかがえる。「多念」の「多」は数量の多であり、「念」は称念の義であって一生涯相続の多念の称名をいう。

〔論点〕

(一) 一念義・多念義について

 法然上人の門下において、念仏往生の真実義を誤り、一念義の立場・多念義の立場という邪義が生じた。

 一念義とは、一声の称名または一念の信で往生の業事は成就すると偏執して、多念の称名を嫌い否定する立場のことをいう。

 多念義とは、平生に多念の称名を積むことによって、臨終に往生の業事が成弁すると偏執して、一念業成を否定する立場をいうのである。

(二)『一念多念分別事』と『一念多念証文』について

 善導大師、法然上人は一念多念を行で語られている。『西方指南抄』に「信おば一念に生ととり、行おば一形をはげむべし」(『真聖全』四・二一六頁)といい、念仏は一声までも決定往生の業と信じ、一生涯念仏を相続せよとすすめられているのである。これは、本願の文「乃至十念」の「乃至」の意味によって称名の一多を問わず能称の功をみず、ただ仏願力を仰いで一向に念仏せよと教示されたものである。

 ところで、『一念多念分別事』も称名について一念に偏執することの誤りを指摘し、一多不離相即の念仏往生を説くのである。このように、行について一多を論ずることは、いずれか一辺に執ずることの誤りを正されるのであって、ここに示される称名はその体徳についての所談であるから称名正定業の意であり、一念一無上・十念十無上、すなわち一声も往生し、多声も往生するとされるのである。

 これに対して、宗祖の『一念多念証文』はもとより『一念多念分別事』の文意を述べられたものであるが、その扱いにはおのずから異なるところがある。『一念多念分別事』の一多はどこまでも称名についてであったが、『一念多念証文』では、一念に信一念と行一念を分け、信一念の時に浄土往生が決定するという「信心正因」の義を明らかにされているのである。そして、その信心は必ず多念の称名となって一生涯相続するものとなる。また、行一念については名号の徳義を称名の初一声のところであらわされたものとされ、念々の称名は名号全現の行であるから、その徳からいえば、声々みな正定業であるから一多のどちらかに偏執して他を否定することを誠められているのである。

(三)信行一多について

 『一念多念分別事』においては、一念多念ともに行についていう。それに対して『口伝鈔』には、「一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事」と題して、「下至一念は本願をたもつ往生決定の時刻なり、上尽一形は往生即得のうへの仏恩報謝のつとめなり。」(『真聖全』三・三三頁)といわれ、それを承けて『帖外御文章』に「他力の信をば一念に即得往生ととりさだめて、そのときいのちをはらざらん機は、いのちあらんほどは念仏すべし。これすなはち上尽一形の釈にかなへり」(『真聖全』五・三〇〇頁)と教示されている。いずれも信一行多の義を明らかにされたものである。すなわち、初起の一念に法体名号を領受してこの信は一生涯相続する。そして信心のうえから口業に流発して多念の称名となる。故に、称名は一声以後すべて多念に摂して、一念は信心にかぎる。これを信一行多という。一念の信心は往生の正因であり、多念の称名は往因円満後の報恩となる。

(四)宗祖と相承の釈義

 『口伝鈔』および『御文章』等の釈は、いずれも信一行多の義を明らかにされている。

 『口伝鈔』等は宗祖の「信心のさだまるとき往生まなさだまるなり」(『真聖全』二・六五六頁)と往生決定の時剋を信一念とされた義意を承け、また「唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」といわれた文意によって、信後の多念の称名のこころもち(意許)は報恩であると示されるのである。この場合は、一念と多念を信と行とに分判し、称名は初一声であっても、信一念より後であるから、多念に属するとして称名全体を多念とされるのである。

以 上

往還分斉

平成15年

〔題意〕

会読論題提要に示すごとくであるが、要をとっていえば、往相と還相の位置づけの区別を明確にするところにある。

〔出拠〕

『本典』「教文類」真宗大綱の文に

 謹案浄土真宗、有二種回向。一者往相、二者還相。
  つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。

とある。

〔釈名〕

「往」とは往相すなわち往生浄土の相、「還」とは還相すなわち遠来穢国の相、「分斉」とはそれぞれの意義の範囲、すなわち位置づけを意味する。まとめて言えば、「往還分斉」とは、真宗教義における往相(往生浄土の相)・還相(遠来穢国の相)それぞれの意義の範囲、またその位置づけという意味である。

〔義相〕

 往相すなわち往生浄土の意義は、無有出縁の凡夫が阿弥陀如来の本願力によって真実報土に往生し無上涅槃の極果を証することにある。聖道門の此土入聖に別した彼土得証の往生浄土門であるから、此土の生・彼土の生の区別は明確であり、此土の生の終わりが彼土の生の始まりと位置づけられる。

 ところで、信心生活や正定聚の自覚道を往生と位置づけ、現生において往生を語り、当来の往生を否定する説が存在する。宗祖は『一念多念証文』や『唯信鈔文意』において、本願成就文の「即得往生」を信一念即時の入正定聚と解釈されておられる。一方、宗祖が命終時において往生を語られる文は枚挙に遑がない。就中十月六日付真仏宛・二月廿五日付浄信宛のご消息には、信一念即時の現生の利益である入正定聚・諸仏護念を往生已前の利益と示されていること等により、宗祖においては当来の往生こそが本義であることは明確である。また、此士人聖の聖道門と別した彼土得証の法門である浄土門においては、此土・彼土の峻別こそが生命線であるということができる。

 還相すなわち還来穢国の意義は、本願力によって得証する無上涅槃に本来具せられている悲用である。

 この還相の利益についても現生で語る説が存在する。すなわち、現生は往生成仏への道という自利、当来は往生後の衆生教化という利他との区別は自利即利他・利他即自利という大乗菩薩道に反するものであるとして、浄土真宗が大乗の至極である以上自利の往相においてそのまま利他の還相を語らなくてはならないとするものである。しかし、還相とは「証文類」還相回向釈に引用される『浄土論』・『往生論註』には「遊戯神通至教化地(神通に遊戯して教化地に至る)」・「得奢摩他毘婆舎那方便力成就(奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て)」とあるように高度の救済能力の発揮であり、「浄土和讃」には「釈迦牟尼仏のごとくにて 利益衆生はきはもなし」と釈尊と同等の利他活動と位置づけられている。このような利他活動は凡夫には不可能であり、現生に還相を語ることができないのは明らかである。

 往生浄土の相である「往相」において、往生とは命終即時の事態であり、還来穢国の相である「還相」とは往生即成仏の証果にともなう自在の救済活動をいう。両者の位置づけを明確にして、宗祖教義に於いては現生の往生や信後の還相が成り立ちえないことを確認しておく。

「往還分斉」判決

平成30年

【題意】

 往相回向と還相回向の二種回向について、往相と還相の区別を明確にし、信心獲得の一念に往相・還相が回向されるということの意義を明らかにする。

【出拠】

『本典』「教文類」真宗大綱の文に
謹案浄土真宗、有二種回向。一者往相、二者還相。(つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。) (聖典全書二・九)
とある。

【釈名】

「往」とは往相すなわち往生浄土の相状、「還」とは還相すなわち還来廻向の相状をいう。「分」はそれぞれの正しい位置を意味し、複数のものごとについて用いられるときにはその分かれ目をいい、「斉」はそろうこと、ととのえることを意味しており、すなわち「分斉」とは、複数の物事のそれぞれの意義の範囲を明確にして位置づけることを意味する。まとめて言えば、「往還分斉」とは、真宗教義における往相(往生浄土の相)・還相(還来穢国の相)それぞれの意義の範囲を明確に示し、またその意義を明らかにするという意味である。

【義相】

往相すなわち往生浄土の意義は、出拠に示した文に続いて、
往相の回向について真実の教行信証あり。(聖典全書二・九)
と示されるように、真実教に明かされる行信の因により無上涅槃の極果を証することである。およそ浄土教とは、此土入聖を目的とする聖道門に対し、浄土に往生して証果を開く彼土得証を目的とするものであり、宗祖教義の特色の一つはその得証が現生すなわち現在の生において決定するという現生正定聚の法義にある。このことは獲信の一念に往生成仏の全ての徳が満足するということに他ならず、「往相の回向について真実の教行信証あり」とは、それが阿弥陀仏の回向によって成立していることを示している。すなわち衆生を往生成仏せしめる全ての功徳が名号法において如来より衆生に回施されるのである。これを他力回向・本願力回向といい、回向される名号の領受すなわち他力念仏による往生のことを宗祖は正信偈偈前の文に「往生はすなわち難思議往生なり」(聖典全書二・五九)と示される。自力諸行による往生を双樹林下往生といい、自力念仏による往生を難思往生というが、この他力念仏による往生、すなわち阿弥陀仏の摂取不捨のはたらきにより往生即成仏せしめられる難思議往生こそ、宗祖教義における往生である。

この難思議往生が決定するのは獲信の一念においてであるが、そのことを宗祖は本願成就文に示された「即得往生住不退転」の語により明らかにされている。すなわち『一念多念文意』には、
「即」はすなわちといふ、ときをへず、日おもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、そのくらゐにさだまりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなわち無碍光仏の御こゝろのうちに摂取してすてたまはざるなり。摂はおさめたまふ、取はむかへとるとまふすなり。おさめとりたまふとき、すなわち、とき・日おもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを「往生をう」とはのたまへるなり。(聖典全書二・六六二)
と述べられ、「うべきことをえたり」の「べき」は可能あるいは当然の助動詞、「たり」は完了の助動詞であるから、「即得往生」とは、「聞信の一念に将来往生できるということを得た」という意味であることが明示されているのである。ここには「住不退転」の直接の釈義はないが、それが「正定聚の位につき定まる」という意味であることが暗に示されている。そのことが明らかとなるのは、続く第十一願文の解釈で、
この二尊の御のりをみたてまつるに、「すなわち往生す」とのたまへるは、正定聚のくらゐにさだまるを「不退転に住す」とはのたまへるなり。(聖典全書二・六六四)
と示され、教主と願主の説示より明らかであると述べられるのである。

この解釈の眼目は、「即得往生」と「住不退転」が同義であり、「住不退転」とは「入正定聚」の意味であることを明示されることにある。「即得往生住不退転」について、「即得往生」は文の当面の意でも聞信の一念において往生が確定するということを表している。それは例えば『唯信鈔文意』に、『観経』の「具三心者必生彼国」の文を釈した善導大師の「具此三心必得往生也 若少一心即不得生」について、
「即」はすなわちといふ、「不得生」といふは、むまるゝことをえずといふなり。三信かけぬるゆへにすなわち報土にむまれずとなり。(聖典全書二・七一〇)
と示され、「一心がかくる」とは『大経』第十八願の「至心・信楽・欲生」の三信すなわち信楽一心がかけるということだから、その状態では将来浄土に往生することが出来ないと述べられているところと、(否定の文ではあるが)文章構造が同じであることから明らかであろう。問題は、通常ならば「即得往生住不退転」の示すところは、獲信の一念に往生が決定し、そして往生後には不退転に住するということであって、「即得往生」と「住不退転」とには時間的な経過もしくは前後があるということである。宗祖教義の特色はそれを「即得往生」と「住不退転」とが同義であり同時であると示されることにより、不退転に住することが現生においての事態であるとされたことにある。

また『唯信鈔文意』には、
「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すといふ。すなわち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなわち正定聚のくらゐにさだまるとのたまふ御のりなり。これを「即得往生」とはまふすなり。(聖典全書二・六九〇)
と述べられて、ここでも「すなわち往生すといふは不退転に住するをいふ」と、「即得往生」と「住不退転」とが同義であることを示され、信心開発と同時に正定聚の位に定まることを明示されている。

このなか、「すなわち往生す」という解釈には「得」の字が釈されていないように見えるが、前掲の『唯信鈔文意』に、
「即」はすなわちといふ、「不得生」といふは、むまるゝことをえずといふなり。三信かけぬるゆへにすなわち報土にむまれずとなり。(聖典全書二・七一〇)
と示されるように、もとの文の「得」の字を訓まれない場合もある。前掲の文では「信心をうれば」とあるため、「うる(得る)」という動詞の重複を避けておられるのであって、「往生す」とあるのは「得往生」について示されたものに他ならない。

往生そのものが命終における事態であることは浄土教である以上は当然のことである。もし獲信の一念に往生するのであれば、宗祖が「真実信心をうれば、すなわち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり」と述べられることも意味のないことになる。

次に還相すなわち還来穢国の相状とは、命終時に真実報土に難思議往生し、往生即成仏の弥陀同体の証果を得、衆生を利益教化するすがたのことである。『教行信証』「証文類」には、
二つに還相の回向といふは、すなわちこれ利他教化地の益なり。(聖典全書二・一三七)
と示されるが、「還相の回向」といわれているのは、「還相」が本願力によって得証する無上涅槃に本来具せられている悲用であり、それが如来の回向によって成立していることを意味している。

第十八願他力念仏は聞信の一念に往生が決定し、命終時に往生即成仏の難思議往生を遂げ、弥陀同体の証果を得る。その相状が往相であり、また、浄土への往生はそのまま衆生摂化のはたらきを示すことになり、その相状を還相という。往還の境目はまさに命終時の難思議往生にあり、そのことを踏まえれば、現生往生・信後還相等の異義は成立しないことが明らかである。
以上

往還分斉 判決

令和6年

「題意」

 宗祖は『教行信証』「教文類」に浄土真宗の大綱を「謹案浄士真宗有二種回向。一者往相、二者還相。就往相回向有真実教行信証」と二回向四法をもって示された。この二種回向の義意と分斉を明確にし、両者の位置づけの混乱から生じる誤った見解におちいらないよう注意をうながす。

【出拠】

『教行信証』「教文類」の真宗大綱に、
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
(『聖典全書』二・九)
『同』 「証文類」「還相釈」に、
二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。すなはちこれ必至補処の願より出でたり。また一生補処の願と名 づく。また還相回向の願と名づくべきなり。
(『聖典全書』二・一三七) を根本とする。そのほか『浄土文類聚鈔』『三経往生文類』(広本)『和讃』など類文は多い。
 なお名目の所依は、『論註』下巻「起観生信章」の回向門の文である。

【釈名】

「往」は往相回向の略であり、「還」は還相回向の略である。「往相」とは「往生浄土の相状」であり、「還相」は「往生浄土の相状」に対すれば「還来穢国の相状」の意である。
 ただし、宗祖の「証文類」の「還相釈」によれば、往相の証果たる無上涅槃の極果を極めた者の必然として展開する利他摂化のための因相示現として「従果遠因の相状」の意である。
 「回向」は菩提回向、衆生回向、実際回向といわれる中の衆生回向すなわち利他回向のことであり、『論註』に「おほよそ回向の名義を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもって一切衆生に施与し、ともに仏道に向かへしむるなり」(『聖典全書』三・四一五)と示されたことをいう。
 宗祖は『論註』下巻の「覈求其本釈」の深意により、本願力による如来の利他回向の義とされて、如来が成就された一切の功徳を名号に摂めて衆生に回施されると領解された。
 「分斉」とは「分」は区分、分判、判別、見わけること。「斉」は辺際の「際」と同意で他のものとのふれあう際(きわ)を言い、互いの領域の接しぐあいをいう。
 合釈すると、往相は「往生浄土の相状」であり、還相は「還来穢国」「従果還因」の「相状」として、回向されている。その区分と適応範囲を確定する。

【義相】

一、『往生論註』 の二種回向釈
 往還回向の語を初めて用いられたのは曇鸞大師の『論註』下巻「起観生信章」の回向門の釈である。そこでは願生行者が行ずる五念門二利の行の中、礼拝、讃嘆、作願、観察の前四念門は自利行をあらわし、第五の回向門は利他行をあらわしていた。この五念二利の因によって浄土に往生した行者は、その果徳として五功徳門の徳相が恵まれる。その近門、大会衆門、宅門、屋門の前四門は初地から八地への自利の徳用をあらわし、第五門の園林遊戯地門は還来穢国し自在に衆生教化を為す利他行を意味している。  この五念門中の回向門は浄土へ往生するための回向行であるから往相回向といい、五功徳門中の園林遊戯地門は浄土より穢国に還来して行ずる回向行であるから、還相回向と名づけられたのである。
 ただし『論註』においては、二回向共に願生の行者が修する往生および成仏のための利他回向行であった。

一、宗祖の二種回向釈
 宗祖は「教文類」に「つつしんで浄士真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり」(『聖典全書』二・九)。また『浄土文類聚鈔』には「しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり」(『聖典全書』二・二六二)と、往還二回向を如来の本願力回向の相と領解された。
 往相回向の四法の中、「教」は能詮の言教たる『大経』を指し、「行」「信」は往生の因をあらわし、「証」はその果をあらわしている。その「行」は所信の法たる名号を指し、「信」は機受の能信をあらわしている。行者は信心決定と同時に摂取不捨の利益によって正定聚に住せしめられる。「証」は真実報土の往生の証果であり、臨終一念の夕べ大般涅槃を超証することをいう。
 「証文類」の「還相釈」には「二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり」(『聖典全書』二・一三七)、また「還相の利益は利他の正意を顕すなり」(『聖典全書』二・一五一)と釈されたように、往生即成仏の果として無上涅槃を極めた者は、その必然として従果還因、広門示現して無碍自在の利他摂化を展開することを還相回向と釈されている。この時は「還来穢国の相状」は他方摂化の一相となる。

一、往還二回向の分斉を明らかにする
 往相回向「往生浄土の相状」における往生は難思議往生といわれるもので、往生即成仏の証果である真実報土の往生を指していた。ただ宗祖は、「即得往生」「難思議往生」とに独自の往生釈を示されている。特に第十八願成就文の「即得往生」については、現生に「得はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば…すなわち、とき・日おもへだてず、正定聚のくらゐにつきさだまるを往生をうとはのたまへるなり」(『聖典全書』二・六六三)。正定聚の左訓には「往生すべき身とさだまるなり」と釈されている。これは信益同時の現生の利益をあらわされたもので、当来の難思議往生を指すものではない。
 還相回向は「証文類」の「還相釈」では 『浄土論』『論註』の文を引用し、さらに『論註』下巻の菩薩の四種正修行、五功徳門等のすべてを従果還因の大慈大悲の妙相と釈されている。このことは宗祖が、「証文類」の初めに、第十一願「必至滅度之願」(『聖典全書』二・一三二)を標し、往相の証果の体を「利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり」(『聖典全書』二・一三三)と指定され、その「滅度」を転釈されて「一如」におさめられたことによる。その「一如」に具わる無量の徳相を従果還因、広門示現してあらわされたのが宗祖の還相の釈意である。

一、現生における信後還相論の是非
 宗祖には、信一念に正定聚に住することについて、先の『一念多念文意』 のように正定聚に入ることを「往生をう」(『聖典全書』二・六六三) とされる釈と、『末灯鈔』第一通に「摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり」(『聖典全書』二・七七七)と言われたように、「往生」を当来の難思議往生のこととし、信一念に当来の往生が決定することとする釈がある。しかし、いずれの場合も現生に正定聚に住することであって、此土において難思議往生を得ると言われることはない。したがって、浄土真宗において現生に難思議往生を得ることは語れない。
 また、還相は従果還因の菩薩による自在の利他教化をあらわす語で、信心の行者は現生に正定聚に住する益を得ると雖も、現実には生涯煩悩具足の凡夫である。その凡夫に、自在の利他摂化は不可能である。
 特に「行文類」に引用された 『如来会』「重誓偈」の「まさに無上菩提の因を証すべし」の文には、「証の字…験なり」(『聖典全書』二・一六)と細註が施されて「証」を「験」の意とされている。この「験」とは、「結果としてあらわれたもの」「因が因であることを証験」された「しるし」をあらわす文宇で、因をあらわすものではない。
 以上のことから、浄土真宗にあっては現生における信後還相を語ることは誤りといわねばならない。

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