覈求其本
〔題意〕
『往生論註』における「覈求其本」の釈意をうかがい、真宗における他力の意義を明らかにする。
〔出拠〕
『往生論註』巻下第十「利行満足章」に
間日有何因繰言速得成就阿耨多羅三藐三菩提
(問ひていはく、なんの因縁ありてか「速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得」といへる。)
と問いを発し、
答日論言修五門行以自利利他成就故然覈求共本阿弥陀如来為増上縁
(答へていはく、『論』に「五門の行を修して、自利利他成就するをもつてのゆゑなり」といへり。しかるに覈に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす。)
とうけて、他利利他を談じ、三願的証して義の意を証するところに出るものである。
〔釈名〕
「覈」は「マコトニ」、あるいは「アキラカニ」と読む。事実をしらべて明らかにするという意がある。
「求」とは推求という意。
「其」は指示代名詞であるが、ここでは『浄土論』に「修五門行以自利利他成就故(五門の行を修して自利利他成就するをもってのゆゑなり)」とあるのを指していう。
「本」とは因、原因、本源の意。
したがって「覈求其本」とは、事実をしらべて、自利利他の功徳を速やかに成就する原因・本源を推求し明らかにすることをいう。
〔義相〕
『往生論註』は、上巻末の八番問答において所彼の機がいかなるものかをあらわし、下巻末の他力釈において能被の法をあらわすことをもって要とする。『往生論註』はまた巻頭から信仏因縁の易行道をもって他力とし、最後のこの覈求其本の問答にはじまる他力の釈をもってしめくくられるように、他力にはじまり他力に終わるものでもある。
この覈求其本の問答は「速得成就」の「速」に問いを発するが、この問いの意味は、『浄土論』に五念五果の成就を述べるについて、前には、
復有五種門漸次成就五種功徳応知。
(また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就したまへり、知るべし。)
と「漸次成就」と説かれるのに、後には、
菩薩如是修五門行自利利他速得成就阿耨多羅三藐三菩提故。
(菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他す。速やかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得るがゆゑ)
と「速得成就」と説かれるのは何故かを問うのである。つまり、はじめには五念門によって「漸次に」五果門を得ると示しながら、その結びにおいて「速やかに」阿耨多羅三藐三菩提を成就すると述べられる理由は何かを問うものである。
これは『浄土論』の不虚作住持功徳の偈に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とある「速」をうけられるものでもあるが、これに答えられるに、まず五念五果が「速得成就」であるその本をいえば、阿弥陀如来を増上縁とするからであると明かされる。
ついで他利利他の深義を展開されて、「速やかに」阿耨多羅三藐三菩提の仏果を証得することができるのは、全く如来の造作によるのであり、衆生の側からは全く無作なることを示して、絶対他力、願力の独用を語られるのである。
さらには衆生の往相・還相が本願力によることを述べて、十八、十一、二十二の三願を的証されるのも、衆生往生の因果がひとしく仏力によることを明かして、「速」の速たる所以が仏力・他力なることを明らかにされるものである。
かくして、この「覈求其本」の釈によって、真宗の他力義はいよいよ明らかになるのである。
以 上
願海真仮
〔題意〕
『本典』の中に、阿弥陀仏の四十八願には真実の願と方便の願とがあると釈されているのであるが、その真仮の分別の意義を窺い、浄土真宗は絶対他力の法門であることを明らかにする。
〔出拠〕
・「真仏土巻」(『真聖全』二・一四一頁)
しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。(中略)すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり
・「真仏土巻」(『真聖全』二・一四一頁)
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
・「化身土巻」(『真聖全』二・一五三頁)
これによりて方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。
・「化身土巻」(『真聖全』二・一五六頁)
いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。
その他、「行巻」偈前の文、『浄土和讃』等の文。
〔釈名〕
「願海」とは、総じては阿弥陀仏の四十八願海のことであるが、別しては生因三願のことである。今は生因三願の第十八願、第十九願、第二十願について考える。「真」とは真実ということであり、阿弥陀仏の随自意のことである。真は仮に対し偽に対する。
「仮」とは方便という意味であり、随他意のことである。随他意とは阿弥陀仏の真意ではなく、衆生の機類に合わせるという意味である。第十九願・第二十願がそれにあたる。方便は善巧方便と権仮方便とがあるが、ここでは権仮方便のことをいう。
〔義相〕
「相承の釈」から述べる。従来から宗祖の三願真仮の判釈に用いられたと考えられるものに、『観念法門』の摂生縁の箇所に本願加減文と第十九願と第二十願等の文があげられている。又『法事讃』巻上に「難思議 往生楽 双樹林下 往生楽 難思 往生楽」という語が度々用いられている。又『漢語灯録』巻一 「大経釈」に但念仏・助念仏・但諸行の三往生が述べてあり、更には「上の本願願成就文の文に但念仏を明かすといえども、上の来迎の願等」と述べられていて、この中に生因三願の意味をくみ取ることができる。
次に宗祖の釈について述べる。宗祖には顕説(願相)と隠彰(願底)の見方がある。願相は第十八願が「行巻」偈前の文に、
その真実の行の願は、諸仏称名の願なり。その真実の信の願は、至心信楽の願なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。(『真聖全』二・四二-四三頁)
と釈されている。又第十九願については、観経隠顕の箇所に、
願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。(中略)二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。(『真聖全』二・一五四頁)
と釈されている。又第二十願については、小経隠顕の箇所に、
願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。
信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。
二十願なり 機について定あり散あり。往生とはこれ難思往生これなり。仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり。(『真聖全』二・一五六頁)
と述べられている。いわゆる第十八願の他力念仏往生と、第十九願の自力諸行往生と、第二十願の自力念仏往生はそれぞれが三願各生ということになる。このことは『浄土和讃』の中にも「本願のこころ 第十八願の選択本願なり」「十九の願のこころなり 諸行往生なり」「二十の願のこころなり 自力の念仏を願じたまへり」と和讃に註記されて、生因三願の和讃が作成されているのである。又願底については、「これによりて方便の願を案ずるに、仮あり真あり」の真であり、「いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり」の真実であって、願底は第十八願の選択本願に通じているのである。
次に「権実真仮と三願真仮」について述べる。『浄土和讃』の「念仏成仏これ真宗、万行諸善これ仮門、権実真仮をわかずして、自然の浄土をえぞしらぬ」と讃じられている。又、『愚禿鈔』の巻上に「ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これ浄土回向発願自力方便の仮門といふなり」といっている。二双四重の教判にあてはめると、二出(竪出・横出)二超(竪超・横超)に当り、三権(竪出・竪超・横出) 一実(横超)ということになる。この中、後者の三権一実の面をいえば、横超の第十八願だけが実であり、他の三は権であり、権を廃して実を取るという立場が権実真仮ということになる。第十八願だけが真であり実ということである。又、三願真仮は第十八願を真(真実)とし第十九願・第二十願を仮(方便)とするのである。
次に簡非(真仮廃立)と権用(従仮入真)について述べる。簡非とは真実の第十八願を顕是とし、方便の第十九願・第二十願を簡非とする。生因三願の特色としては、信行前後の異、信楽有無の異等に分けられる。これに対して、権用は暫用還廃ということになる。方便願より真実願に入れさせる誘引のはたらきである。「化身土巻」の宗祖自喜の段(三願転入の段)には、
久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるにいまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。
果遂の誓、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。
とされるが、深く味得すべきである。これは弘誓の仏地に立った上での、悲願の願功のことをいったものである。
最後に真仮判釈の意義について述べる。「真仏土巻」に「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」といわれている。第十八願と第十九願・第二十願との間で、はっきりとした真仮廃立がなされていないと、第十八願の信前行後や信因称報の真宗義が正しく知らされないことになる。要するに願海真仮を通して、如来の広大なる恩徳を知らされていくのである。
機法一体
(平成10年)
一、出拠
『御文章』(三帖目第七通)に「しかれば南無の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆゑに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり」等、あるいは(四帖目第八通)「南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり」等とある。この他に、四帖目第十一通・第十四通にも同様の文が見られる。機法「体の語は、『願願鈔』・『六要鈔』・『存覚法語』・『蓮如上入御一代記聞書』等にも見られ、特に『安心決定鈔』に数多く見られるが、今は『御文章』を正しき出拠とする。
二、名 義
機法という対目は、元来仏の教法と、その教化の対象となっているものとの関係を表わす語であった。
『法華玄義』の感応妙の釈下に微・関・宜の三義をもって機を釈されたものがそれである。即ち仏の教化に応じて、菩提心を発す微をもち、教化に深い関係をもち、また化益を施すに適した者であるから機というのである。これを古来所彼の機とも性得の機ともいいならわしている。蓮如上人の機の語例には、如来の救済の対象となっている者、人の心、弥陀をたのむ信心、信心を得て正定聚に住している者等の種々の用例があるが、機法一体の機は「阿弥陀仏を信ずる機」といわれるように信心のことである。これを受法の機といいならわしている。けだし生得の機の上に与えられた信心であるから、機という名を信心に及ばしたのである。
「法」とは衆生を救う摂取不捨の教法をいう。
「一体」とは不二のことで、南無阿弥陀仏において南無の機と、阿弥陀仏という摂取不捨の法とが、機法の別がありつつ不二であることをいう。なお衆生と仏とが離れない在り方をしているという不離一体を表わす場合もある。このときは、如来の摂取不捨を法といい、摂取されている正定聚の人を機といわれたことになる。これも受法の機というべきである。
三、義相
出拠にあげたように、『御文章』三帖目第七通等によれば、南無阿弥陀仏の南無の二字を阿弥陀仏を信ずる機とし、阿弥陀仏の四字をたすけたまう法と いうように、二字と四字に分釈し、名号はたのむ機 とたすけまします法とが一体であるという機法一体の道理をあらわしているといわれている。すなわち「たのむ」機、すなわち信心は、「たすけたまう」法、すなわち摂取不捨の願力によって起こさしめられたものであって、たすける法の外にたすがる信心はない。ゆえに機と法とは一体(不二)であるといわれるのである。
すでに「たすけたまう」法が、私の上に「おたすけをたのむ」信心となって顕現しているのであるから、「たのむ」信心が発ったとき、信心の行者は「たすけたまう」法に摂取される。その摂取不捨の利益にあずかっているすがたを三帖目第七通には、彼此三業不相捨離と釈されたが、この場合は、如来と信心の行者との不離一体のことを機法一体といわれたといえよう。
さて名号を聞くということは、「われをたのめ、必ずたすける」という機法一体に成就されている法のいわれを聞くことであるから、六字みな法である。この法を聞いた信心は、「弥陀のおたすけをたのむ」というあり方をしているから、信心、すなわち機も南無阿弥陀仏であって、六字みな機であるといえる。こうして六字を二字と四字に分釈して機法一体をあらわす場合と、六字がみな法であり、また機でもあるという表し方がある。特に後者は一句の南無阿弥陀仏を仏の側からいえば「たのませてたすける」願力の法を顕しており、衆生の側からいえば「弥陀をたのむ」信心のありさまをあらわしていることになる。このように機も南無阿弥陀仏、法も南無阿弥陀仏であるという道理によって、法が機となるという本願力回向の信心のありさまが明らかになるのである。いいかえれば、親鸞聖人が顕わされた本願力回向の行信を蓮如上人は機法一体の道理として顕わされたのである。
なお、蓮如上人が重く用いられた『安心決定鈔』の機法一体論は、衆生の往生と仏の正覚が一体不二に誓われているという道理を顕わすことを主としていた。それを往生正覚一体の機法一体説とよんでいる。その道理を仏と衆生の上で生仏互入の機法一体説として展開したり、念仏衆生と摂取不捨の如来との彼此三業不離の道理を機法一体といわれることもあった。しかし蓮如上人のような「たのむ」機と「たすける」法との機法一体説は見られない。
なお、機法一体とよく似た名目に仏凡一体がある。『御文章』(二帖目第十通)には「さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもって仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。これによりて弥陀如来の遍照の光明のなかに摂めとられまゐらせて、一期のあひだはこの光明のうちにすむ身なりとおもふべし」といわれたものがそれである。しかし仏凡一体は信心の利益としての転成をあらわす法義であって、他力回向の信心の構造を顕わす機法一体とは区別しておかねばならない。
以 上
機法一体
平成16年
〔題意〕
衆生の信心(機)と如来の救済の力・はたらき(法)とが別々のものではないことを、蓮如上人の教意を中心にうかがい、明らかにするものである。
〔出拠〕
『御文章』三帖目第七通に、
しかれば、南無の二字は衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。次に阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆへに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこゝろなり。
とあり、また『同』四帖目日第一四通に、
このゆへに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆへに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏とまふすこゝろなり。
とある。その他『御文章』には四帖目第八通、同帖第一一通にも出るところである。
〔釈名〕
「機」とは機教、機法と熟語にされるように、広くは仏と衆生とを相望めて、仏の教法・教化に対してその対象となるもの、仏の教法を被るべき対象をいうが、この諭題でいう「機」とは、「受法の機」をいうのであって、衆生のタノム機のこと、すなわち衆生の信心をいう。
「法」とは広くは「任持自性 軌生物解」などといわれ、「それ自体の本性を保持し、軌範となって他の解知を生ぜしめるもの」と釈されるが、ここでは衆生を摂取する如来の法、如来のタスクル力、すなわち如来の救済の力用をいう。
「一体」とは体が一つということ。別々のものではなく、一つのものであるということである。
したがって「機法一体」とは、衆生の信心(機)と、如来の救済の力用(法)とは、別々のものではなく、一つのものであるということを意味する。
〔義相〕
「機法一体」とは、名号(南無阿弥陀仏)に関する論であるが、蓮如上人の釈には、六字を二字四字に分釈される場合と、六字皆機・皆法の釈を示される場合とがある。
まず二字四字分釈とは、南無阿弥陀仏の六字について拠勝為論され、南無の二字を「衆生の弥陀をタノム機」とし、阿弥陀仏の四字を「如来の衆生をタスクル法」と分けて釈され、その南無の機と阿弥陀仏の法とが一体に成就されているのが機法一体の南無阿弥陀仏であると示されるものである。
これに対して六字皆機・皆法の釈とは、六字について剋通論され、南無阿弥陀仏の六字の全てがタスクル法であり、またその全体がタノムの信となると示されるものである。
『御文章』 一帖目第一五通に、
南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。
等とあるのが六字皆法の釈で、『御文章』三帖目第二通に、
その他力の信心といふは、いかやうなることぞといえば、ただ南無阿弥陀仏なり。
等と示されるのが六字皆皆機の釈である。
すなわち六字皆機・皆法とは、南無阿弥陀仏の六字全体がタスクル法(六字皆法)であるゆえに、その法がそのまま衆生にとどいて信心となる(六字皆機)ということを示されるのである。
要するに「機法一体」とは、如来の救済の力用そのものである南無阿弥陀仏(法)が、本来的に衆生の信心(機)となってはたらくものとして成就されているということであり、機と法とは不二にして、体は一の名号なることをあらわすものである。
なお機法一体と仏凡一体は、ともに「一体」というが、「機法一体」の場合は、衆生の信心は名号を体とするものであり、名号は衆生の信心となるべく本来成就されているという意味で「本来一体」という。これに対し「仏凡一体」という場合は、本来は別物であった仏心が、凡心に満入して、凡心が仏心によって転ぜられて仏心と一体になるという意味で、これを「転成一体」という。ただし、仏凡一体というも、あくまで信心の法徳において語られるものである。
以 上
機法一体
平成21年
〔題意〕
『御文章』に用いられている機法一体の意味を明らかにする。衆生の信心は如来のはたらきを領受したものであり、衆生の信心(機)と衆生を救う力・はたらき(法)とが別々のものではないことを明らかにする。
〔出拠〕
『御文章』三帖目第七通・四帖目第八通・同第十一通・同第十四通等に機法一体の語が出る。
〔釈名〕
「機」とは南無帰命の信心をいい、「法」とは阿弥陀仏の救いの法、すなわち摂取不捨の願力をいう。「一体」とは体は一つということである。つまり機法一体とは、衆生の信心(機)と阿弥陀如来の衆生救済の力用(法)とは、別々のものではなく、一つのものであることを意味している。
同じく機法の語を用いる「二種深信」において、「法」とは、機法一体の法と同じく摂受衆生の法を指しているが、「機」は、救われるべき衆生、性得の機、すなわち無有出緑の機を指している。よって、二種深信の機の語義は、機法一体の機の語義と異なっている。
〔義相〕
①機法一体の用例(『願願鈔』・『六要鈔』・『存覚法語』・『安心決定鈔』等)
機法一体という語は、衆生の何か(機)と如来の何か(法)とが一つであることを意味する語であり、種々の意味で用いられている。
(一)覚如上人の機法一体
覚如上人の機法一体は、『願願鈔』に見られるが、『改邪鈔』第十九条の説意からすれば、仏心と凡心との一体の意味で解することができる。
(二)『安心決定鈔』に見られる機法一体
『安心決定鈔』に見られる機法一体には、三種が見られる。すなわち、往生正覚一体の機法一体と、色心功徳の機法一体と、彼此三業不離一体の機法一体とである。
まず、「往生正覚一体の機法一体」とは、第十八願の「若不生者不取正覚」の誓いにより、衆生の往生(機)と阿弥陀如来の正覚(法)とが一つであるという意味で機法一体という。
次に、「色心功徳の機法一体」とは、機とは衆生の身心をさし、法とは仏の果体の功徳のことである。この仏の功徳が衆生の身心に入り満ち、ひとつになっている状態、つまり如来の功徳と凡心とが一体になっている状態をさして機法一体という。『御文章』の仏凡一体と同一の意味である。
最後に、「彼此三業不離一体の機法一体」とは、阿弥陀如来の身口意の三業によって成就された名号が衆生に領受されるのであるから、衆生の称名(口業)・礼拝(身業)・憶念(意業)は、阿弥陀仏と離れないという意味で機法一体という。
(三)存覚上人の機法一体
存覚上人の機法一体は、『存覚法語』と『六要鈔』とに見られる。
『存覚法語』の機法一体は、『安心決定鈔』と同じく往生正覚機法一体であるが、『存覚法語』では、浄土往生後の仏凡の寿命の一体と転用されている。
『六要鈔』に見られる機法一体は、基本的には、第十八願の信(機)と第十七願の行(法)とが不離であることを機法一体と示されている。存覚上人においては、第十七願の行とは念仏であるから、信心と念仏との不離一体を機法一体と示されたと見ることができる。
②機法一体の釈相
『御文章』における機法一体は、まず南無の二字と阿弥陀仏の四字とに分釈されている。本来、南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま衆生の信心(機)であり、また南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま阿弥陀如来の救済の力用(法)であるが、「南無」の語は、もともと衆生の信をあらわす語と見ることができ、「阿弥陀仏」の語は、衆生救済の仏を意味しているので、拠勝為論して二字と四字とに分釈されたものである。『御文章』三帖目の第七通には、「しかれば、南無の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに阿弥陀仏といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり」と、「南無」の二字を衆生の信心(機)、「阿弥陀仏」の四字を阿弥陀如来の救済の力用(法)として示される。すなわち、衆生の信心(機)である「南無」と阿弥陀如来の救済の力用(法)である「阿弥陀仏」とが一つの南無阿弥陀仏として成立していることを機法一体と示すのである。
しかし剋実通論すれば、南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま衆生の信心(機)であり、また南無阿弥陀仏の六字全体がそのまま阿弥陀如来の救済の力用(法)であるので、『御文章』三帖目第二通に「さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり」と六字皆機が示され、一帖目第十五通には、「南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり」と六字皆法が示される。
③仏凡一体との同異
機法一体の「一体」が、本来一つであることを意味するのに対して、仏凡一体の「一体」とは、本来は別のものが一つになることを意味する。仏凡一体の「仏」とは仏心を指し、『御文章』二帖目第十通に「如来のよき御こころ」といわれているもので、仏智・清浄真実の心等ということもできる。「凡」とは凡心のことであり、同じく『御文章』二帖目第十通に「行者のわろきこころ」といわれているものである。これは、煩悩罪濁の心・虚仮不実の心等ということもできる。このような仏心と凡心とが一つになることを仏凡一体という。
どのように一つになるかについては、『御文章』二帖目第十通に、「行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふ」とあり、『蓮如上人御一代記聞書』本第六十四条に「衆生のこころをそのままおきて、よきこころを御くわへ候ひて、よくめされ候ふ」と示されている。つまり、仏凡一体というのは、衆生の煩悩罪濁の心が、仏智によって転じられ、仏の清浄真実の心と一つになるという事態をいうのであって、『蓮如上人御一代記聞書』本第六十四条に「衆生のこころをみなとりかへて、仏智ばかりにて、別に御みたて候ふことにてはなく候ふ」といわれている。
〔結び〕
機法一体という語そのものは西山派でよく用いられる語であるが、『御文章』の中で蓮如上人は、機法一体の語を用いて浄土真宗の法義を明らかにされている。
機法一体の義そのものは、宗祖や善導大師の上にすでに存する。すなわち、「信文類」の三重出体の釈には、「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」とあり、至心の体は名号と示され、衆生の信心とは名号願力によって成立している信心であると示されている。また「信文類」に引用される善導大師の「散善義」の二河譬においても、「中間の白道四五寸といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ」と、白道とは信心を喩えたものであると示し、後に「かの願力の道に乗じて」と、白道とは願力のことであると示されるところに、衆生の信心(機)がそのまま阿弥陀如来の願力(法)であるということが示されている。
衆生の信心(機)と阿弥陀如来の救済の力用(法)とは、本来一つのものであり、衆生の信心は仏のはたらきによっておこるものであって、衆生自らがおこすものではない。
逆謗除取
平成10年
一、出拠
『大経』の第十八順及び第十八順成就文に、「ただ五逆と誹膀正法とをば除く」と説かれており、『観経』下々品には、十悪五逆の者が、十念念仏によって「往生することを得」と説かれている。この二経の文について、『論註』上巻の八番問答に逆謗の除取を論じ、「散善義」下々品釈には、逆謗の抑止と摂取が論じられている。
『教行信証』信巻末にはこの『論註』と「散善義」を引いて逆謗摂取が釈されており、『尊号真像銘文』に「唯除五逆誹謗正法といふは、唯除といふはただ除くといふことぱなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」といわれたものが正しき出拠となる。
二、名 義
「逆」は五逆罪で、恩福両田に背く罪であって、これに殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合憎という三乗の五逆罪と大乗の五逆罪がある。後者には謗法も摂められている。「謗」とは謗法罪を犯した者の意で、無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法というものをさす。「除」は除外で、五逆・謗法の者が救いから除かれるということ、また「取」は救い取られるということである。したがって、「逆謗除取」とは、五逆や謗法の罪を犯した者は、本願の救いから除かれるのか、あるいは摂取されるのかということである。
三、義相
『論註』八番問答には、第十八願及び成就文に五逆と謗法を共に除くといわれているのに、『観経』下々品では五逆が摂取されていることについて二義をあげて会釈されている。
第一は罪の単複に約する。すなわち『大経』は五逆と謗法の二罪を具するから除くといわれ、『観経』は、五逆のみであるから摂取されたというのである。
第二は論法は単罪でも摂取されないという。一つは謗法は極重罪の故であり、二つには謗法の者には願生の理がないからであるといわれる。これらを総合すれば、『論註』では謗法の者は願生の信がないから救われないという一点に集約されるようである。ただし『論註』下に如来の口業功徳を明かす中に、如来の至徳の名号、説法音声を聞けば、謗法の罪が滅せられるといわれているから、謗法のものも回心して念仏すれば得生を認められていたことがわかる。
『散善義』の下々品の釈には『大経』に逆謗を除かれたのは未造業のものに対して往生を得ずと抑止されたものであり、『観経』下々品に五逆の罪人の救いが説かれたのは、已造業の者であるから大悲をもって摂取されたのであって、謗法の摂取が説かれていないのは未造業なるが故であるといわれている。すなわち已造・未造をもって摂抑を論ずるのである。ところで『法事讃』に「謗法闡提回心皆往」といわれているのと対応すると、未造業とは、単にまだ造っていないというだけではなく、未回心の者をさしており、已造業とは、単に逆謗を造ったものというだけではなく、罪に気づいて回心しているものというべきである。その意味では『論註』に通ずるものがある。すなわち未造業のものには、造らないようにと誠め、已造業のものには、罪に気づいて回心すれば救われると教化されるのが、未造抑止と、已造摂取の仏意であるというべきである。
宗祖は「信文類」に上述の『論註』と「散善義」の文を引用して逆謗摂取の義意を論じられているが、『銘文』にはその心を要約して、「除く」というのは、五逆と謗法は、仏が嫌い斥けられる極重罪であることを逆謗の機に知らしめ、自らの罪を罪と認知せしめることによって回心せしめ、本願の大智海に入れしめようとされた善巧の施設であるとされている。
すなわち「唯除逆謗」の教語は、逆謗の機に深悔を生ぜしめて聞法の機たらしめ、逆謗の機をもらすことなく、一切の衆生に信心を与えて救おうとされた教説で、「除く」という言葉をもって「救い」を実現されたといわれるのである。
こうして、唯除という「除」は、回心しなければ摂取されないから実除であって、仮除ではなく、回心すれば摂取されるから暫除であって永除ではないといわねばならない。
次に「唯除」を弥陀の抑止とするか、釈迦の抑止とするかについて古来異論があるが、今は本来弥陀の抑止であって、釈尊はその本仏の意を述成されたものであると考える。『銘文』に「十方一切の衆生みなもれず救わんとなり」といわれたのは弥陀の願意を顕わされたものだからである。『口伝鈔』が「抑止は釈迦の方便なり」といわれたのは、弥陀は摂取を主とし、釈迦は勧誡を主とされることを強調されたもので、理実には摂取も勧誡も二尊に通ずるとみるべきである。
なお、法然上人はこの唯除の文意をもって念仏者の倫理の根源とされていることは注意すべきである。
以 上
逆謗除取
平成18年
〔題意〕
『大経』第十八願の抑止の文には逆謗が除かれるが、『観経』下々品には五逆が摂取される。この相異について逆謗の意義を問い、除取の意趣についてその所顕をたずね、悪人正機の源意を明らかにする。
〔出拠〕
- 『大経』第十八願、及び同成就文
- 『観経』下々品
- 『往生論註』八番問答
- 「散善義」下々品釈、『法事讃』上
- 『本典』「信文類」(末)逆謗摂取釈、『尊号真像銘文』「唯除」の釈等の文
〔釈名〕
逆謗の「逆」とは、「さからう」「反逆」の意で、ここでは恩田・福田に背く五つの反逆罪のこと。五逆とは、殺父・殺母・殺羅漢・出仏身血・破和合僧である。宗祖はこの三乗共通の五逆罪と『薩遮尼乾子経』にある大乗の五逆罪を引かれてある。大乗の五逆罪の中には謗法がおさめられている。
「謗」とは、「誹謗」のことで、「そしる」「非難する」「否定する」「破傷する」の意である。今は誹謗正法のことで、『論註』には、無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法と自ら解し、他からそのように受けて決定することをいう。
「除取」の「除」とは、「除外」「除去」「とりのぞく」「はずす」の意をいう。
「取」は摂取で「おさめとる」「すてない」との意である。したがって「逆謗除取」とは五逆や謗法の罪を犯した者は、本願の救いから除かれるのか、あるいは摂取されるのかということである。
〔義相〕
一、『往生論註』の釈
先づ『論註』の釈意から窺うと、八番問答中に、『大経』の第十八頭成就文を引いて、五逆謗法以外の一切の凡夫が皆往生をうると釈し、『観経』下々品の文を引いて、五逆罪の者が摂取されていることを示して、二経の相違について問答されている。
二、「除取」の意義
第一釈は罪の単複について、『大経』は五逆と謗法との両罪であるが、『観経』は五逆の一罪である。即ち『大経』は二罪故、往生から除外されるが、『観経』は五逆の一罪故に往生を得るとする。
それでは一罪二罪の相異ならば、謗法の一罪では摂取されるかというと、それは不可である。
その理由として第二釈に謗法の一罪で余罪なくとも往生できない。それは一つには謗法は極重罪であり、二つには仏法を謗り否定する者に願生の理がないからである。たとい為楽願生しても理に合わないからである。
ただし、『論註』下の如来の口業功徳釈には如来の名号説法音声を聞けば、謗法の罪が滅せられると釈してある。つまり論法の者も回心して如来の口業功徳の名号を信受すれば、往生が認められるとする。『論註』の釈は謗法は願生の理がないから救われないという意義と、回心して名号を信ずれば摂取されるという。「除く」の裏に摂取の大悲をあらわされる釈である。
三、「散善義」の釈
次に[散善義」の釈を窺うと、『観経』下々品に五逆罪が摂取して往生を得ているが、『大経』には五逆謗法共に除かれている矛盾について、已造と未造に約して二経を通釈されている。
四、摂抑二門と逆謗除取
即ち未造の者に抑止、已造の者には摂取という義意である。未造抑止はまだ罪を造らない者に対して、造れば堕地獄という極重罪を知らしめ、逆謗の二過を誡しめて、方便して止(とど)めて往生を得ずと抑止されたのである。抑止とは、おさえとどめることである。已造摂取とは『観経』の如く、五逆の悪人、已にその罪を造った者を、仏これを哀愍して捨てず、大悲をおこして摂取して往生せしめる。『観経』では謗法が除かれてあるのは謗法は未造の故に説かれていないが、五逆と同様に已に造らば、摂取して往生を得しめるという法義が、一方を略して互いにあらわしている。未造・已造というが未造の者には抑止しても已造の者を摂取するならば、結局罪を造っても摂取されるならば抑止の意味がなくなるのではないかという疑問が生ずる。それについて『法事讃』に「仏願力をもつて五逆と十悪と罪滅して生ずることを得、謗法と闡提、回心してみな往く」と示される。已造業とは単に逆謗を造っただけでなく、罪を慚愧し廻心している者を意味する。故に未造業が単に造っていないというだけでなく、廻心懺悔していない未廻心の者をさしていることになる。故に未造抑止とは重罪を犯さないよう誡め、罪を認めない未廻心の者に慚愧して廻心に導く意味を持つ。已造業の者は罪を懺悔して、廻心して本願を聞信している者というべきで、そこに未造抑止と已造摂取の仏意を示されたのである。
五、唯除の所顕
宗祖は「信文類」末の終わりに『涅槃経』を用いて、難化の三機が本願醍醐の妙薬によって救われていくことを示し、『論註』と「散善義」の文を引用してある。この二文の意を要約して、『銘文』に「唯除」の釈を示されてある。
それによると、五逆と謗法は仏が嫌い斥けられる極重罪であることを知らしめ、廻心して法を信受するよう導き、みなもれず往生せしめようとする大悲の善巧のことばであるといわれる。唯除逆謗とは逆謗の機に慚愧廻心せしめて一人ももらさず信を与えて救うということであるから、「除く」という語をもって救いを実現されたとみられている。
「唯除」という「除」の意義は、廻心しなければ摂取されないから、実除であって仮除ではなく、廻心すれば摂取されるから、暫除であって永除ではない。
更に「唯除」は弥陀の抑止か、または釈迦の抑止かの議論があるが、『銘文』に「十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」といわれて、弥陀の願意であると顕されたのである。
本願の「十方衆生」の中には未熟の機がある。自力作善にとらわれる善人には第十九・二十願によって従仮入真(にっしん)せしめ、因果を否定し罪悪流転する悪人を哀みて、因果の理法をとき、深悔を生ぜしめて聞法の器を成ぜしめんが為に「唯除」の抑止門を誓われたのである。かくて十方衆生万機普益の誓願のおもむくところ逆謗の悪人こそ本願救済の正所被であると、悪人正機の仏意をあらわされたものである。
以 上
行一念義
平成12年
【題意】
称名の初一声に大利を得るという義について窺い、それは諸行の法に対して、本願の法が至易最勝の法なることを顕わすものである旨を明らかにする。
【出拠】
「行文類」 (真聖全二、三四頁)に、
凡就往相回向行信、行則有一念、亦信有一念。
言行之一念者、謂就称名遍数顕開選択易行至極。
おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。
とあり、また『一念多念文意』(同前、六一一頁)には、『大経』弥勒付属の文の釈(原文省略)があり、『末灯鈔』第十一通(同前、六七二頁)には、行信両一念不離のお示し(同じく原文省略)がある。これらの三文を行一念義の出拠とする。
【釈名】
「行」とは「行文類」に説かれている大行であり、法蔵因位の万行造作の徳を具し、衆生を往生即成仏の証果に進趣せしめる法体名号のことである。また、「一」とは初一の義、「念」とは称念の義であり、「一念」とは初一声の義である。まとめれば、「行一念」とは、衆生に領受された法体名号が口業に発動する最初の一声、つまり信後の初一声のことである。
【義相】
① 正依『大経』には、数箇所に「一念」の語が出るが、本願成就文(真聖全一、二四頁)と三輩段中の下輩(同前、二五頁)と弥勒付属(同前、四六頁)の三処の一念が往因に関係する一念であり、余他の一念は往因に関係しない。宗祖は、今の行一念釈には弥勒付属の一念を例示され、「信文類」の信一念釈(真聖全二、七一頁)に本願成就文の一念を例示される。また、特に三輩段中の一念を取り上げての釈はないが、「化身土文類」(同前、一四四頁)・『三経往生文類(広本)』(同前、五五五頁以下)には三輩段を第十九願成就の文と位置づけられる。法然聖人は、『選択集』「利益章」(真聖全一、九五二頁)に三処の一念をすべて行の一念と示される。覚如上人は、『口伝鈔』第二十一条(真聖全三、三四頁)に本願成就文の一念と弥勒付属の一念とを同一のものと位置づけられ、蓮如上人は、『御文章』五帖目第六通(同前、五〇三頁)に、弥勒付属の一念を信の一念と位置づける釈を示された後、『正像末和讃』をもってその意をあらわされる。
このように、三処の一念についての釈義は一様ではないが、本願成就文・弥勒付属の文の一念は、いずれも機が法体名号を領受した一念であり、行信どちらで見ても可というべきであろう。三輩段の一念については、法然聖人の『選択集』「三輩章」(真聖全一、九四八頁以下)に念仏と諸行との関係を廃立・肋正・傍正の三義で示されるように、三輩段全体が真仮両通であると見ることができ、宗祖も「信文類」菩提心釈(真聖全二、六九頁)に三輩段中の菩提心を真実信心と示されるべく『往生論註』の文を引用される等、三輩段を要門義一辺倒と見られているのではない。
これらの一念は、機受を示すものであるから剋実通論すれば行信両通ではあるが、本願成就文は機受の極要を示したものであるから信の一念と見るのが文に親しい。また、弥勒付属の文は、胎化段の「為失大利」(真聖全一、四四頁)と対照すれば、信疑得失の意で信の一念と見ることもできるが、弘願法を弥勒に付属するとの意からすれば、聖道法の経道滅尽に対して止住百歳する弘願法を機受の念仏をもって行々相対して示すのが便であり、行の一念と見るのが文に親しい。法然聖人は行々相対して念仏諸行の廃立を行われて浄土宗独立を主張する立場から、機受を行の一念で釈され、宗祖は弘願法開顕の立場から拠勝為論して、成就を信の一念、付属を行の一念と釈されたのである。
② 行一念釈は、まず行信の不二不離を示すべく行信の両一念を標するが、信一念の釈は「信文類」に送って、ここでは行の一念のみが釈される。その行の一念とは、称名の遍数すなわち回数について選択易行の至極、すなわち弘願法の至易を顕すものであると釈される。つまり、わずか一声の称名によって大利を得て無上の功徳を具足するのであるから、積累して功徳を高める諸行の法に対して至易というべく、また得大利・具足無上功徳に着目すれば最勝ということができる。この得大利・具足無上功徳は、初一声にかぎらず、名号全顕であるところのどの一声においても語ることができる。その意味では、行一念の一念とは信後のどの一声でもよく、初後を問わないとの見方も充分成立し得るが、功徳を積累する諸行の法との対比という意味からすれば、初一声と理解するのが妥当である。諸行の法に対しているということは、後に
言大利者対小利之言。言無上者対有上之言也。
信知、大利無上者一乗真実之利益。小利有上者則是八万四千仮門也。(真聖全二、三四頁)
大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。
とあるのよりすれば明らかであり、この諸行の法とは、すなわち八万四千の仮門であって、「化身土文類」の門余の釈(同前、一五四頁)をも参照すれば、本願一乗海すなわち弘願法以外の法門すべて、つまり聖道法・要門法・真門法すべてを意味する。
なお、易は機受無作を、勝は法体全顕をあらわすのであり、至易即最勝というべきであろう。
弥勒付属の文以降、行相の釈・一念の会合釈等の随文解釈は省略する。
③ 行一念釈と信一念釈とは、ともに機受の一念についての釈であるが、その所顕は異なる。すなわち、行一念釈の所顕は法体の超勝であり、法体名号全顕の称名に於いて、その初一声からすでに得大利の力用をそなえていると示すことによって、諸行の法に対して弘願法の至易最勝を顕わすのである。これに対して、信一念釈の所顕は唯信独達であり、信楽開発の即時に入正定案の利益を獲るという、受法得益同時を示すことによって、願力回向の信心以外のなにものも往因成就に関係しないことを顕わすのである。
④ 行信両一念はともに機受の一念である、そのありようは異なる。すなわち、法体名号が衆生の心に領受されたのが信であり、領受された名号が口業に発動されたのが行である。この両一念は不離と示されるが、その不離のありようは、まず心に法体名号を領受する、その最初の時が信一念、それが口業に発動する最初の一声が行一念であり、同時不離ではなく、前後不離である。決して信一念同時に称名が存在するのではないことに注意をはらうべきである。
『末灯鈔』第十一通には行信両一念の不離が示されている。まず、本願の「乃至十念」を「下至十声一声等」の一声と示して、本願への無疑を信、信後の称名を行と釈される。所聞所信の本願の一声はそのまま信後の初一声と重なり、無疑の信心との不離が示されるのである。すなわち、所聞所信がそのまま能聞能信となる信、言い換えれば法体名号を体とする信であるから、その信は、必ず称名となって口業に発動する信(行を離さない信)であり、また、如実の称名、法体全顕の称名とは、大信海流出の称名(信を離れない行)であることを明らかにするのが、この釈の所顕である。
以 上
行一念義(2019)
【題意】
初一声の称名に大利を得るという意をうかがい、選択本願の念仏は、諸行に比して至易最勝の法であることを明らかにする。
【出拠】
「行文類」行一念釈の文、『一念多念文意』付属釈の文、「親鸞聖人御消息」の文等。
【釈名】
「行」とは「行文類」に説かれている大行であり、法蔵因位の万行造作の徳を具し、衆生を往生即成仏の証果に進趣せしめる法体名号のことである。また、「一」とは初一の義、「念」とは称念の義であり、「一念」とは初一声の義である。まとめれば、「行一念」とは、衆生に領受された法体名号が口業に発動する最初の一声、つまり信後の初一声のことである。
【義相】
一、『大経』所説の「一念」の分斉
『大経』所説の往因に関する「一念」は、本願成就文(以下「成就文」と略称)、三輩段の文、付属の文にある。源空聖人は『選択集』利益章で付属の一念について、
いまこの一念といふは、これ上の念仏の願成就のなかにいふところの一念と下輩のなかに明かすところの一念とを指すなり。(一・一二八一)
等と示し、三ヶ所をすべて行の一念とみられる。
宗祖は、成就文の「一念」を、
あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(二・六八)
と読まれ、それは受法得益同時の唯信独達の宗義をあらわしているとして、信の一念であるとみられる。また、三輩段の「一念」は、真仮分判の立場から「化身土文類」に第十九願成就文とされている。一方で「信文類」菩提心釈に「みな無上菩提の心を発せざるはなし」(二・九二)と引かれて他力の信心の意とみられるなど、真仮に通じる釈を施されるから一文両義である。そして、付属の「一念」は、
当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもって哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。(一・六九)
とある経意を承けて、行の一念とみられる。
この他、歴代では、覚如上人は『口伝鈔』第二十一条に信の一念の出拠として成就文並びに付属の文を挙げ、また、蓮如上人は、付属の文を『御文章』第五帖第六通に拳げ、「正像末和讃」に「五濁悪世の有情の選択本願信ずれば」とある句を示して信の一念とみられる。
このように、三輩段を除いて、成就文と付属の文の「一念」は、行信いずれにも通じる。しかしながら、それぞれの特徴を挙げて論ずれば、成就文の「一念」は、受法得益同時の初帰の相状をあらわしているから、信の一念とみる方が親しく、付属の「一念」は、「歓喜踊躍」と相続の行相を示し、行行相対して廃立の意をあらわしているから、行の一念とみる方が親しい。
二、遍数の一念の意
行一念釈には「称名の遍数について選択易行の至極を顕開す」(二・四九)とある。先ず、遍数の意について窺うと、『安楽集』の十念相続釈では、十念の十にとらわれる必要はないとして、初一声のところで業道成弁せしめられる意をあらわし、第二声以後のすべてに名号の全徳がそなわると示されている。また『選択集』の利益章では、「すでに一念をもって一無上となす」「また千念をもって千無上となす」(一・一二八一)とあり、初一声のところで無上大利を得る意をあらわし、「かくのごとく展転して少より多に至る」(同)と示される。これらは一多に執じてはならないことをあらわし、「乃至一念」の「乃至」に即した従少向多の意である。したがって「一念」は、初一声から第二声以後にかかるから、初後を選ばない。しかしながら、行一念釈に、
大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。(真聖全二、三四頁)
大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。
と示し、また「化身上文類」の門余の釈に、
門余といふは、門はすなはち八万四千の仮門なり、余はすなはち本願一乗海なり。(二・一九六)
と示されるのは、行行相対の経意を承けた釈であり、それは諸善を積み重ねる小利有上の仮門すなわち聖道門・要門、ならびに真門の法を廃し、初一声のところに無上大利の益を得るという誓願一仏乗の意を立てることにある。したがって、就顕の意は、初一声に「ついて」、「選択易行の至極」すなわち衆生の造作を必要としない法体名号の独用を「顕開」するということである。
次に、衆生の造作を必要としないという点から窺うと、行一念釈で「乃至」に一多包容の釈を施して一念も多念も信相続の行業として包み容れると釈し、称功を募るものではないと示される。また『一多文意』の付属釈には「乃至は、称名の遍数の定まりなきことをあらはす」(二・六六八)とあり、
自然にさまざまのさとりをすなはちひらく法則なり。法則といふは、はじめて行者のはからひにあらず、もとより不可思議の利益にあづかること、自然のありさまと申すことをしらしむるを法則とはいふなり、一念信心をうるひとのありさまの自然なることをあらはすを、法則とは申すなり。(二・六六九)
と示される。すなわち「もとより不可思議の利益」を得しめる「自然」の「法則」とは法体名号の独用であり、「はじめて行者のはからひにあらず」と釈される。したがって、ここに機受無作の易行の意を窺うことができる。
そして、法体名号の独用という点から窺うと、『往生礼讃』には「この経住すること百年せん。その時聞きて一念せんに、みなまさにかしこに生ずることを得べし」(一・九二七)と釈して、初一声のところに往生・成仏の功徳がそなわると示されている。また『一多文意』には、
一念は功徳のきはまり、一念に万徳ことごとくそなはる、よろづの善みなをさまるなり。当知此人といふは、信心のひとをあらはす御のりなり。為得大利といふは、無上涅槃をさとるゆゑに、則是具足無上功徳とものたまへるなり。則といふは、すなはちといふ、のりと申すことばなり。如来の本願を信じて一念するに、かならずもとめざるに無上の功徳を得しめ、しらざるに広大の利益を得るなり。(二・六六八)
とある。その意は、初一声のところに万徳がそなわっているということであり、それは「かならずもとめざるに無上の功徳を得しめ」「しらざるに広大の利益を得」しめるはたらきがそなわっているということである。したがって、ここに法体名号の独用で無上大利を得しめられるという至極最勝の意を窺うことができる。
三、行相の一念の意
行一念釈には、遍数の釈に続いて、
釈に専心といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。専念といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。(二・五〇)
と釈し、行相の一念を示されている。このうち「専心」とは無二心の意で心相をあらわし、「専念」とは、無二行の意で行相をあらわしている。続いて「一声・一念・一行・正行・正業」と転釈して、付属の一念は余行をまじえない無二の行業であることをあらわし、また「正念・念仏・南無阿弥陀仏」と転釈して、それは信相続の行業であり、法体名号の活動相であることをあらわされる。すなわち、行信不離不二の意を示されるのである。
四、信の一念と行の一念の関係
行相の釈に行信不離不二の意を示されているが、「親鸞聖入御消息」には、
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。(二・七四七、七九三)
とあり、信相・行相を釈して、行信不離の意を示される。しかしながら、時を語れば、時剋の釈では、信の一念は、信楽開発の即時に仏因円満するという唯信独達の宗義をあらわし、遍数の釈では、行の一念は、初一声のところで為得大利の徳用を示して法体名号の至易・最勝なることをあらわすから、法体名号が衆生心中に領受された最初の時を信の一念といい、それが初一声となるところを行の一念というのである。したがって、信の一念は前、行の一念は後であり、前後不離の関係となる。
以 上
光号因縁
〔題意〕
両重因縁の解釈は、行信の分斉を決判して信心正因を弁立し、浄土真宗の法義を明確にする。
〔出拠〕
「行文類」(真聖全二・三三頁)
良トニ知ヌ、无マシマサズパ二徳号ノ慈父一、能生ノ因闕カケナム。无マシマサズパ二光明ノ悲母一、所生ノ縁乖ソムキナン。能所ノ因縁雖モレ可ト二和合ス一、非ズバ二信心ノ業識ニ一、无シレ到コト二光明土ニ一。眞實信ノ業識、斯コレ則為ス二内因ト一。光明名ノ父母、斯レ則チ為ス二外縁ト一。内外ノ因縁和合シテ、得二證ス報土ノ眞身ヲ一。故ニ宗師ハ言ヘリ下「以二光明名号一攝二化十方一、但使中信心求念ト上」。又云ヘリ二「念佛成佛是眞宗ト」一、又云ルヲ二「眞宗・カタシト一レ遇」也ヤ。可シトレ知ル。
「序分義」 (真聖全一・四八五頁)
若シ無クンバレ父者、能生之因即チ闕ケナン。若シ無クンバレ母者、所生之縁即チ乖キナン。若シ二人倶ニ無クンバ、即チ失ハン二託生之地ヲ一。 要ズ須ク三父母ノ縁具シテ方ニ有ル二受身之處一。既ニ欲スルニレ受ケントレ身ヲ、以テ二自ノ業識ヲ一為シ二内因ト一、以テ二父母ノ精血ヲ一為ス二外縁ト一。因縁和合スルガ故ニ有リ二此ノ身一。
『往生礼讃』 (真聖全一・六五一頁)
「以テ二光明名号號ヲ一攝二化シ下フ十方ヲ一。但使ムレバ二信心ヲシテ求念セ一、上盡シ二一形ヲ一下至ルマデ二十聲一聲等ニ一、以テ二佛願力ヲ一易シレ得二往生ヲ一。
その他「正信偈」『浄土文類聚鈔』『執持鈔』『口伝鈔』などにある。
〔釈名〕
「光」は光明であり、「号」は名号である。「因縁」とは因縁和合ということである。
そこで、この因縁和合について、「行文類」にあるように初重に徳号の慈父の能生の因と光明の悲母の所生の縁によって報土の真身を得証する因縁を説き、次の後重には真実信心の業識の内因と光明・名号の外縁との因縁を出して、機受の要を明らかにするものである。
〔義相〕
光号因縁の解釈は、喩えを序分義の「孝養父母」の釈により、その釈義は『礼讃』の「以テ二光明名号號ヲ一攝二化シ下フ十方ヲ一。但使ムレバ二信心ヲシテ求念セ一」等の義をうけてこれを顕わされるものである。
この釈は両重因縁ともいわれるように、「徳号ノ慈父」より「所生ノ縁乖ソムキナン」までを初重とし、「能所ノ因縁雖モレ可ト二和合ス一、非ズバ二信心ノ業識ニ一」以下を後重とする。
初重についてみると、名号を父とし、光明を母とする。それは『礼讃』前序の光明・名号を「序分義」に示す父と母とにたとえられたもので喩えの父と母とは別体であるが、喩えられた法の名号と光明とは別のものではなく名体不二である。従って、名号を能生の因とし、光明を所生の縁とするといっても、この能生・所生は能為・所為とか能化・所化といわれるような能動と受身の関係を示すものではなく、「正信偈」の能入・所止の用例のように能生の意味である。また、因と縁とを分けて示されてあっても、親因・疎縁の別をいうのではない。そこで初重は光明・名号の法体を能生の因縁とするのである。
さて、この名号と光明の父母によって生まれる子に喩えられるものは何であるかといえば、それは後重に示されるものと同じく報土の真身である。
ところで初重を獲信の因縁、後重を得生の因縁とみるならば、「序分義」の釈が同一の果を得るについて両重を示されているものと合わないし、宗祖の釈の上で、次の後重のはじめに、「能所ノ因縁雖モレ可ト二和合ス一」といわれた文を領解することはできない。すなわち、初重を獲信の因縁とみるならば、能所の因縁が和合すれば信心を生ずることになり、それでは「能所の因縁和合すべしといえども、信心の業識に非ずは」などということはいえないからである。
つまり、初重も後重と同じく報土得証について因縁を示されたもので、初重は光明・名号の法体がよく衆生を得果せしめる因法であることを示されたものとうかがう。
次に後重は初重の義をうけて、法体に衆生を得果せしめる力用があるけれども、これを信受しなければ、衆生は往生の果を得られないことを明らかにされる。「眞實信ノ業識、斯コレ則為ス二内因ト一」と示されるのがその意味である。
「眞實信ノ業識」というのは、信心が業識であるということではない。今は名号と光明を父母にたとえ、信心を業識にたとえられたのである。また、後重に光明・名号を共に外縁とされることも「序分義」の文によるのであって、要は信心が正因であることを明らかにされるのである。なお、喩えの「業識」と「父母」とは別体で、因と縁との関係であるが、今の法の上では、光明・名号の法体が衆生心中に満入したのが信心である。
この両重因縁の釈は、「行文類」にあっては、初重において、法体名号が衆生得果の業因である名号独用の義を示し、後重にはその法体名号もこれを信受しなければ往生できぬという唯信正因を顕わして、名号業因・信心正因の関係を明らかにされたのである。行信の関係については、近くはこの両重因縁釈の行信の利益が明かされるところに「獲ウレ二眞實ノ行信一者バ」、「帰二命スレ斯行信一者バ」などとあり、すでに総序の文に「圓融至徳ノ嘉号ハ転テレ悪ヲ成レ徳ヲ正智、難信金剛ノ信楽ハ除キレ疑ヲ獲エシムルレ証ヲ眞理也」などと示されているところである。
今はその行信開合の関係を明らかにして、次に「信文類」を別開する伏線となる重要な釈義である。
以 上