三往生義

平成15年

〔題意〕

親鸞聖人における三往生の説示を窺い、自力往生との対比によって、他力往生の意義を明らかにする。

〔出拠〕

『本典』「証文類」標挙には

必至滅度之願 難思議往生

とあり、「化身上文類」標挙には、

無量寿仏観経之意 至心発願之願 邪定聚機 双樹林下往生
阿弥陀経之意也 至心回向之願 不定聚機 難思往生

とある。

〔釈名〕

「難思議往生」とは、第十八願他力念仏往生、すなわち顕露彰灼の経である『大経』に説かれる往生である。「難思議」とは「不可思議」の意であり、往生の因果が衆生の思議を絶しているので、「難思議往生」という。
「双樹林下往生」とは、第十九願自力諸行往生、すなわち『観経』顕説の往生である。「双樹林」とは沙羅双樹のことであり、釈尊入滅の処を意味する。娑婆所現の釈尊にちなみ、化仏所居の土に往生することを、「双樹林下往生」という。
「難思往生」とは、第二十願自力念仏往生、すなわち『阿弥陀経』顕説の往生である。万善円備する一切善法の本であり、十方三世の徳号の本であるところの名号を称する往生であるから「難思」と名を得るが、本願疑惑の罪によって「難思議」の名を得ることができない。

〔義相〕

宗祖は、自力往生を双樹林下往生・難思往生と示されるが、また胎生とも示し、自力の行者所入の土を懈慢界・辺地・七宝の牢獄等とも示される。 自力往生とは、「真仏上文類」に

良仮仏土業因千差、土復応千差。
    まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。

とあるように、人々各別の生因によって所入の土も人々各別であるという往生である。宗祖は、四十八願中に生因三願が建立されていることに基づき、その三願に真仮を見られた上で、自力往生を諸行による双樹林下往生と念仏による難思往生とに区別されている。生因については諸行と念仏とに大きく区別されるが、人々各別の所入の土については、これを一括して方便化土と示され、また辺地・懈慢界等とも称されるのである。
難思議往生・双樹林下往生・難思往生の語は、もと善導大師の『法事讃』に出る。『法事讃』には、三経往生区別の微意を示すともとれる文の存在が古来指摘されているが、宗祖は語を『法事讃』に借り、義を転用して三経往生に配当されたのであると見るべきである。
宗祖における自力往生と他力往生の区別は、『大経』胎化段に基づく。すなわち、仏智疑惑による胎生と明信仏智による化生が対比され、前者には不見三宝の失があるというのが胎化段の説示である。宗祖はこれに基づき果の得失を示すことによって、勧信誠されるのである。

三法四法

平成15年

〔題意〕

三法四法の開合の相状を検討し、行中摂信及び信別開の意義を明らかにする。

〔出拠〕

『本典』題号には

顕浄土真実教行証文類

とあり、「教文類」真宗大綱の文には、

就往相回向有真実教行信証。
往相の回向について真実の教行信証あり。

とある。

〔釈名〕

「三法」とは教・行・証であり、「四法」とは、教・行・信・証である。
教とは、聖人下に被らしむるの言であり、法然上人は『選択集』に正明往生浄土の教として三経一論を示され、宗祖は『本典』に真実教として『大経』を示される。
行とは造作・進趣を義とし、法然上人は念仏為本と示され、宗祖は衆生の念仏として常に法界に流行している法体名号として明かされる。
信は法然上人においては『観経』の三心を中心に示されるが、宗祖は疑蓋無雑の信楽一心と的示される。
証とは法然聖人においては往生と語られ、宗祖は証験と示されて此土における行信の因が彼土において果として顕現した無上涅槃の極果として明かされる。

〔義相〕

釈名に示したように、教・行・信・証それぞれについて、法然上人と宗祖とに所顕の相異は見られるが、本論題においては特に行信の開合を中心に論じる。
法然上人は三経一論を所依として念仏往生の法義を闡揚されるが、『選択集』三心章には信疑決判を示され、その念仏とは無信単行の念仏ではなく、具信の念仏であることをあらわされる。
宗祖は『本典』の構成を四法門であらわされるが、これは法然上人の念仏往生の真義を開顕されるものである。すなわち、法然上人は外聖道門に対して浄土門独立を意図し、行行廃立して本願念仏法という法の超勝性を明確にされるのであるが、その本願念仏とは他力の念仏であり、その他力たる所以は信にある。よって宗祖は称功を廃し唯信独達の意義を明確にし信心正因を示すために機受の極要たる信を別開されるのである。
第十八順における三心・十念すなわち信心と念仏とは機受の全相をあらわし、ともに名号願力の活動相にほかならない。宗祖は、衆生を信ぜしめ、念仏せしめ、往生成仏せしめる法体名号を「行文類」に大行とあらわされ、その法体名号を衆生が領受する極要を大信として「信文類」にあらわされる。このように、『本典』の構成は信が別開された教・行・信・証の四法門であるが、一方、『本典』題号や『略典』の構成は、信を行におさめた教・行・証の三法門となっている。
三法門は、聖道自力の三法が釈尊滅後次第に衰滅するのに対し、浄土他力の三法が在世正法・像末法滅ひとしくはたらくことをあらわしている。また、第十八願法そのものとしては、信を行におさめることによって行と証とが直接し、名号願力の独用によって証果の開かれることがあらわされる。
四法門は要門・真門の自力往生法に区別した弘願他力法の特性があらわされる。すなわち、特に真門法と弘願法とはともに念仏を行とし、至心・回向・欲生という真門の三心各別の信と三心即一の信楽一心という弘願の信とを示さなければその区別がつかない。ちなみに、要門法は至心・発願・欲生の信を示さなければ聖道法との区別がつかないということも付言しておく。また、弘願法そのものとしては、信を別開することによって信と証とが直接し、信心ひとつが往生成仏の正因たることがあらわされるのである。

十二光義

【題意】

阿弥陀仏の果徳である十二光の意をうかがい、これらは無碍光を中心とする衆生摂化のはたらき、すなわち名号の徳義を表したものであることを明らかにする。

【出拠】

第十二願成就文、『讃阿弥陀仏偈』・『述文賛』・『弥陀如来名号徳』・『正信偈大意』の釈文等。

【釈名】

十二光の十二とは、数の意であり、『大経』(魏訳)所説の光明の徳義の数をあらわす。なお「真仏土文類」では、異訳大経『如来会』(唐訳)の文を挙げ十五を数える。この他『荘厳経』(宋訳)では十三を挙げる。しかしながら、光明の徳義は無数であり、それをあらわす数には開合があるから、今は正依大経の数に依る。また十二光の光とは、阿弥陀仏の光明の意である。
したがって、十二光とは光明の徳義を十二として示したものであるが、それらは一つの光明の徳用であり、十二の光があるという意ではない。そして、十二光は衆生済度の本源である弥陀の覚体であり、衆生をして往生・成仏せしめる「真実功徳」であるから、「誓願の尊号」すなわち名号の徳義を十二の異名であらわしたものという意である。

【義相】

一、光寿二無量の意
光寿二無量は「真仏土文類」の標挙に光明無量・寿命無量の願名を挙げ、真仏土釈に「すなはち光明・寿命の願これなり」(二・一五五)と示して以下に二願を引証されるように、弥陀の覚体をあらわす。すなわち、光明無量は横超十方の徳用を示し、寿命無量はそのはたらきが三世竪徹することを示す。また『仏説阿弥陀経』(以下『小経』と略称)の名義段には、

舎利弗、なんぢが意においていかん。かの仏をなんがゆゑぞ阿弥陀と号する。舎利弗、かの仏の光明無量にして、十方の国を照らすに障碍するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす。また舎利弗、かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づく。(一・一〇七)

と説かれる。このうち、「十方の国を照らすに障碍するところなし」とは、往生の因をなす徳用をあらわし、「かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり」とは、往生の果をなす徳用をあらわす。同じく『往生社讃』には、『小経』と『仏説観無量寿経』の真身観の「一々の光明は、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らし、摂取して捨てたまはず」(一・八七) の文を合して、

かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障碍するところなし。ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。(一・九一七)

と示されている。すなわち、光寿二無量の弥陀正覚の果体は、そのまま衆生済度の本源となるという意をあらわされているのである。さらに「玄義分」には、

法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして菩薩の道を行じたまひし時、四十八願を発したまへり。一々の願にのたまはく、もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らし。(一・六七四)

とあり、阿弥陀仏は、総じて四十八願に酬報した仏身であるが、第十八願に帰結させて示されている。また「親鸞聖人御消息」には、

第十八の本願成就のゆゑに阿弥陀如来とならせたまひて、不可思議の利益きはまりましまさぬ御かたちを、天親菩薩は尽十方無碍光如来とあらはしたまへり。(二・七四四、七七一、七八〇、七八二)

とあり、本願成就の果体は阿弥陀仏であるといわれるのであるから、光寿二無量の弥陀正覚の果体は、そのまま衆生摂化の徳用となっているという意である。その衆生摂化の徳用を「尽十方無碍光如来」であると示されるのは、『浄土論』の帰敬頌に「世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」二・四三三)とある意を承け、願心荘厳の「真実功徳」を「尽十方無碍光如来」と示し、その徳用を無碍光に摂められているからである。

二、光明と名号の関係
真仏土釈には「仏はすなはちこれ不可思議光如来」(二・一五五)とあり、寿命の体を光明の用に摂して弥陀の覚体を「不可思議光」と示し、「行文類」には「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」(二・一五)とあり、衆生をして往生・成仏せしめる名号を「無碍光」と示される。これらは一つの光明の徳義をあらわしたものであるから、弥陀の覚体をあらわす光明は、そのまま衆生をして往生・成仏せしめる名号の徳義をあらわすということである。この光明と名号の関係を窺うと、『往生論註』の讃嘆門釈には、

この光明は十方世界を照らしたまふに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く(中略)かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。(一 ・四八九)

と釈し、光明の破徳と名号の破闇満願の徳用を併せて示されている。また「行文類」両重因縁釈には『往生礼讃』の光号摂化の文意を承け、

徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明・名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。(二・四九)

とある。その意は、「能生の因」としての「徳号の慈父」も、「所生の縁」としての「光明の悲母」も、ともに仏果である「報土の真身を得証」せしめる徳用があるということである。このうち、光明については、第十二願成就文に「この光に遇ふものは、三垢消滅し身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず」「至心不断なれば」「その国に生ずることを得」(一 ・三四)とあり、信心を開発・相続して得生せしめる徳用があると示される。また、名号については、第十八願成就文に「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」「かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」(一・四三)と、受法・得益同時を示し、「行文類」には「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」(二・一九)と釈し、所称の名号に破闇満願の徳用があると示されている。したがって、光明と名号は不二であり、弥陀の覚体をあらわす光明は、そのまま衆生をして往生・成仏せしめる名号の徳義をあらわすということである。

三、十二光の徳用
先ず、十二光の徳用を概観すると、はじめの無量光から無称光までは光徳の直顕であり、超日月光は光徳の譬顕である。光徳の直顕の内、無量光と無辺光は衆生摂化の体徳をあらわし、無碍光は以下の八光の総相として衆生摂化の徳用をあらわす。なお、徳用をあらわす無碍光は、体徳をあらわす無量光と無辺光を摂して十二光の総相ともなる。そして、衆生摂化の徳用の内、無対光と光炎王は迷いの因果を破す破徳をあらわし、清浄光・歓喜光・智慧光・不断光と、難思光・無称光は、さとりの因果となる満徳をあらわす。このうち、清浄光・歓喜光・智慧光・不断光は信心を開発し相続する徳用をあらわし、難思光・無称光は往生・成仏せしめる徳用をあらわす。
次に、それぞれの徳用について簡潔に窺うと、一、無量光とは『讃弥陀偈』(一・五三五)に「智慧の光明量るべからず」「有量の諸相光暁を蒙る」とあり、『大意』(五・八)に「利益の長遠なることをあらはす、過現未来にわたりてその限量なし」と釈されるように、無明の闇を破す無量の智徳をあらわし、その照益が三世竪徹する意をあらわす。
二、無辺光とは『讃弥陀偈』に「解脱の光輪限斉なし」「光触を蒙るもの有無を離る」とあり、『大意』に「照用の広大なる徳をあらはす、十方世界を尽してさらに辺際なし」と釈されるように、有無の邪見を離れしめる断徳をあらわし、その照用が横超十方にわたる意をあらわす。
三、無碍光とは『讃弥陀偈』に「光雲無碍にして虚空のごとし」「一切の有碍光沢を蒙る」とあり、『名号徳』(二・七三一)に「ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふ」「有情の煩悩悪業のこころにさへられずまします」と釈されるように、智断の二徳を体として一切を自在に潤す恩徳をあらわし、迷いの因果を破してさとりの因果となる徳用をあらわす。
四、無対光とは『大経』(一・三三)に「諸仏の光明、及ぶことあたはざるところなり」とあり、『讃弥陀偈』に「清浄の光明対あることなし」「この光に遇ふもの業繋除こる」と釈されるように、迷いの因を滅する破徳をあらわし、その徳用に対する光明はないという意をあらわす。
五、光炎王とは『大経』に「三塗の勤苦の処にありて、この光明を見たてまつれば、みな休息を得てまた苦悩なし」とあり、『讃弥陀偈』に「仏光照曜すること最第一なり」「三塗の黒闇光啓を蒙る」と釈されるように、迷いの果を滅する徳用をあらわし、その光明は無上であるという意をあらわす。
六、清浄光とは、『讃弥陀偈』に「一たび光照を蒙れば、罪垢除こりてみな解脱を得」と釈されるように、信心を開発し転迷開悟せしめる徳用をあらわし、第十二願成就文に「この光に遇ふものは、三垢消滅し身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず」とある「三垢消滅」の意である。なお『述文賛』(二・一七八引)等には、この清浄光と歓喜光と智慧光は、三大煩悩を治する徳用があると釈されている。
七、歓喜光とは、『讃弥陀偈』に「安楽を施したまふ」「光の至るところの処法喜を得」と釈されるように、信心を開発し法喜を得しめるという徳相をあらわし、本願成就文の「歓喜」、第十二願成就文の「身意柔軟」「歓喜踊躍」の意である。
八、智慧光とは、『讃弥陀偈』に「仏光よく無明の闇を破す」と釈されるように、本願疑惑の闇を破し、信心の智慧を生ぜしめる断惑生信の光徳をあらわし、第十二願成就文の「善心生ず」の意である。
九、不断光とは『讃弥陀偈』に「光力を聞くがゆゑに心断えずしてみな往生を得」とあり、『述文賛』に「仏の常光つねに照益をなす」と釈されるように、信心を相続せしめる光照不断の徳用をあらわし、信心不断であるから得生するという意をあらわす。第十二願成就文の「その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説して至心不断なれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得」の意である。
十、難思光とは『讃弥陀偈』に「その光仏を除きてはよく測るものなし」「十方諸仏往生を歎じその功徳を称したまへり」とあり、『名号徳』に「釈迦如来も御こころおよばず」と釈されるように、信心不断の衆生をして得生せしめる徳用をあらわし、その光徳は釈迦・諸仏にとって不可思議である意をあらわす。
十一、無称光とは『讃弥陀偈』に「神光相を離れたれば名づくべからず」「光によりて成仏したまへば光赫然たり」とあり、『浄土和讃』の無称光讃の「因光成仏」に「光きはなからんと誓ひたまひて、無碍光仏となりておはしますとしるべし」(二・三四二)と左訓を施されていることから、衆生をして成仏せしめる徳用をあらわし、その身にそなわる果徳は光明無量の願成就の無碍光仏と同体のさとりを得しめられるという意である。
十二、超日月光とは『讃弥陀偈』に「光明照曜すること日月に過ぎたり」「釈迦仏歎じたまふもなほ尽きず」と釈されるように、譬喩をもって光徳をあらわす。

四、十二光の総相
総じて、無碍光の所顕を窺うと、「親鸞聖人御消息」には、

ひとびとの仰せられて候ふ十二光仏の御ことのやう、書きしるしてくだしまゐらせ候ふ。くはしく書きまゐらせ候ふべきやうも候はず。おろおろ書きしるして候ふ。詮ずるところは、無碍光仏と申しまゐらせ候ふことを本とせさせたまふべく候ふ。無碍光仏は、よろづのもののあさましきわるきことにはさはりなくたすけさせたまはん料に、無碍光仏と申すとしらせたまふべく候ふ。(二・八四八)

と示されている。無碍光は、智断二徳を体として自在無碍のはたらきをあらわす光明であり、それは迷いの因果を破してさとりの因果となるという衆生摂化の徳用であるから、十二光の総相となるという意である。また、第十二願成就文と第十八願成就文の意は同じであり、『尊号真像銘文』に「真実功徳は誓願の尊号なり」(二・六一九)と釈されるように、無碍光を総相とする「真実功徳」は、そのまま衆生をして信心開発して得生せしめるという威神功徳の名号の徳義をあらわしているということである。
また、不可思議光の所顕を窺うと、『讃弥陀偈』では、難思光と無称光の釈意を合し、結讃に「不可思議光に南無し、一心に帰命し稽首して礼したてまつる」(一・五四八)と示されるように、願心荘厳の「真実功徳」を不可思議光に摂められている。その意は『名号徳』に、

難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり。つぎに無称光と申すは、これもこの不可思議光仏の功徳は説き尽しがたしと釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば曇鸞和尚の讃阿弥陀仏の偈には、難思光仏と無称光仏とを合して、南無不可思議光仏とのたまへり。(二・七三四)

と示されている。その内実は、第十二願成就文に「それしかうして後、仏道を得る時に至り」とあり、本願に「もし生ぜずは、正覚を取らじ」と誓われる意と同じである。したがって、衆生をして往生・成仏せしめるという難思・無称の不可思議光の徳用は、弥陀同体のさとりを得しめるという名号の徳義をあらわしているということである。

十劫久遠

平成16年

〔題意〕

阿弥陀仏の成仏の時期について、『無量寿経』および『阿弥陀経』は十劫の昔(十劫成道)と説くが、他経によれば久遠劫の昔(久遠実成)と説く。この両者の説意をうかがい、真宗の阿弥陀仏観を明らかにする。

〔出拠〕

「十劫」については、『無量寿経』巻上に、

成仏已来、凡歴十劫。(成仏よりこのかた、凡そ十劫を歴たまへり)

と説き、『阿弥陀経』に

阿弥陀仏成仏已来、於今十劫。(阿弥陀仏は成仏したまひてよりこのかた、今に十劫なり)

と説かれる。またこれを『讃阿弥陀仏偈和讃』には、

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり
  法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり

と讃ぜられる。 これに対し「久遠」については、『大経和讃』に、

弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど
  塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ

と示される。

〔釈名〕

「劫」とは梵語カルパの音写。大時、長時と訳す。きわめて長い時間の単位のこと。これはよく盤石劫、芥子劫の譬喩であらわされるところである。
「十」とは数の十のこと。「十劫」とは一劫の十倍。ここでは阿弥陀仏の成道について、それが十劫の昔であること、すなわち「十劫成道」をいう。
「久遠」とは久遠劫のこと。ここでは阿弥陀仏が久遠劫の昔より、実に正覚を成就したもうている仏であること、すなわち「久遠実成」をいう。

〔義相〕

『大経』に説かれる阿弥陀仏は、十劫の昔に成仏された有始無終、従因至果、因願酬報の報仏であるが、『法華経』寿量品には釈迦如来の本門を五百塵点久遠劫よりも久しき古仏と示されており、宗祖はこの本門の釈迦をもって阿弥陀仏と見抜かれたといえる。そこで『大経讃』には「塵点久遠劫よりも ひさしき仏と見えたまふ」と示され、さらに『諸経讃』では、

久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて
  釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する

と讃ぜられる。すなわち阿弥陀仏は『大経』、『小経』では十劫成道と説かれてはいるが、その実は久遠実成の古仏であると示されるのである。久遠の仏とは無始本有の仏であることをいう。十劫成道の仏は、この久遠仏より衆生済度のために従果降因した仏である。
久遠仏とは、無始已来流転の衆生にはたらき続けている仏であることを意味するといえるが、一方で衆生において領解できるのは、有始にして成道の過程をしめしたもうた十劫仏である。そこで『大経』には十劫成道が説かれ、弥陀大悲の因願酬報のありさまが、衆生に親しく領解されるべく開説されているのである。
この十劫仏と久遠仏の関係について、阿弥陀仏は久遠の古仏であるが、この久遠仏より法蔵菩薩と名のり出て成道したもうたのが十劫の阿弥陀仏であるとして、時間的前後の関係で示される場合と、十劫仏は一如より垂名示形し修因感果した従因至果の仏であるが、この一如がすなわち久遠仏といえるのであるから、従因至果の仏がそのまま従果降因の仏であるとして、空間的関係において十劫即久遠と示される場合とがある。
したがって阿弥陀仏は十劫の昔に成仏された従因至果・有始無終の仏と示されてはいるが、その実は久遠劫の昔からの仏であって、従因至果がそのまま従果降因であり、有始無終がそのまま無始無終であるところの本来の仏であることをいうものである。

以 上

指方立相

平成14年

〔題意〕

阿弥陀仏の浄土が西方にあると説かれた意義をうかがい、浄土の荘厳相をたてられた説意を明らかにする。

〔出拠〕

『定善義』(『真聖全』一・五一九頁)
「今此観門、等唯指方立相、住心而取境。総不明無相離念」
『仏説無量寿経』(『真聖全』一・一五頁)
「法蔵菩薩、今已成仏、現在西方。去此十万億刹。其仏世界、名曰安楽。」
その他
『仏説観無量寿経』
『仏説阿弥陀経』
『安楽集』
『法事讃』等がある。

〔釈名〕

釈尊に約していえば、「指」は指示、「方」は方処、「立」は弁立、「相」は相状をいい、釈尊が「西方」という方処を指して阿弥陀仏の浄土の荘厳相を教示されていることをいう。
また、阿弥陀仏に約すれば、「指」は指定、「方」は方処、「立」は建立、「相」は相状である。すなわち、阿弥陀仏は此土からいって西方という方処を指定されて浄土を建立されたことをいう。
そこで、『定善義』像観の「等唯指方立相、住心而取境。」の文は、釈尊に約して指方立相が語られており、『安楽集』に「法蔵菩薩願取西方一成仏今現在彼。」とあるのは、弥陀に約して語るものといえよう。

〔論点〕

(一)西方の意義

ここでいう「西方」とは、東西南北四維中の西方であって、方処を指すのである。阿弥陀仏の浄土は『仏説阿弥陀経』に「従是西方」とあるように此土を基点として指示したものであり、須弥山説によって論じられたものである。従って天動説による立場である。しかし、地動説を常識とする現代の人にとって、従是西方をいかに理解すべきであろうか。
これについて『安楽集』に「以閻浮提云日出処名生没処名死…中略…是故法蔵菩薩願成仏在西悲接衆生。」とあるように、日の没する処という地理的方処に即して、宗教の領域としての方処と領解すべきである。『往生礼讃』「前序」にある「須面向西方者最勝、如樹先傾倒必随曲、故必有事礙不及向西方、但作向西想亦得。」との文は、西方を宗教的に受けとめることを教示しているのである。
ところで『浄土論』には浄土について「究竟如虚空広大無辺際」とあり、『論註』には「此浄土随順法性不乖法本」と説かれている。これによると、阿弥陀仏の浄土は無相無辺と説くのである。それでは無相無辺と、西方の荘厳国土とはどのように理解すべきなのであろうか。云いかえれば、真如法性と願心荘厳の関係を、どう領解すべきかということである。これについて『論註』は真如法性を略とし、願心荘厳を広として広略相人の論理を展開している。その説明として、『論註』は略を法性法身とし、広を方便法身として、いわゆる由生由出、不一不異と示すのである。このことを思惟すると、浄土は無方即方、方即無方であり、無相即相、相即無相であるといわれるのである。
ただ、方即無方・相即無相の知見は、悟りの世界の所見である。そこでこの迷界の衆生に対して、方即無方の方と、相即無相の相で応じるのが指方立相の立場なのである。
従って、衆生においては西方浄土に願生するのであるが、如来の本願力により、無生の生の浄土、無量光明土へ証入せしめられるのである。この論理を言いあてているのが、いわゆる『論註』の氷上燃火の釈なのである。

(二)過十万億仏土の問題

『大経』には阿弥陀仏の浄土について「去此十万億刹」といわれ、『小経』には「過十万億仏土」とある。しかし『観経』には「去此不遠」と説かれている。
『観経』の「去此不遠」については、「序分義」に三義をあげて解釈されている。
①分斉不遠・・・無辺際の領域からみれば近い。
②一念即到・・・距離的には遠いと思うが、往生するときは本願力によるが故に一念に往生することができる。
③観念即現・・・浄土はそれを観ずる者の心相に常に顕現するから遠くない。
ちなみに、①は『大経』、『小経』により、②は『観経』「散善義」により、③は『観経』定善の立場よりの領解である。
「過十万億仏土」の「過」は超過(勝過)と経過の義がある。いずれも此土に対する彼土を指すことを留意すべきである。

(三)仏国土の表現

阿弥陀仏の国土の表現については、経論釈に種々に説かれている。『大経』は「安楽」と、「安養」、『観経』・『小経』には「極楽」の語が多い。
ところで、宗祖の聖教の上にみえる、宗祖の言葉としては「極楽」の語は僅かである。そのことは「諸の楽のみを受く」とあるのを、自己の欲望を満たす世界への往生ととる誤解を誠められたことである。「真仏土巻」に、「謹按真仏土者仏者則是不可思議光如来 、土者亦是無量光明土也。」と説示されていることには重要な意義がある。

(四)浄土建立の意義

『大経』に法蔵菩薩の発願の心を述べて「令我於世速成正覚、抜諸生死勤苦之本」とあるが、その願心の具体的発動が浄土の建立となったのである。これについて『安楽集』には「為欲成就衆生故願取仏国」と述べ、また「法蔵菩薩願成仏在西悲接衆生。」といわれている。浄土建立の意義は、ひとえにあらゆる衆生を成仏せしめるためにほかならない。

(五)無相離念と立相住心

「定善義」第八像観の釈義によれば、諸師は『観経』に説かれる法界身を法身とみて、それをあるいは「唯識法身観」の立場より、または「自性清浄仏性観」の立場よりこれを解釈して、『観経』の観法を無相離念の理観を説くものとみなした。
これに対して、善導大師は『観経』に説かれている観門は末代濁世の凡夫を対機としているのであって、西方に荘厳成就された有相の浄土を観察する事観であるとされるのである。従って無相離念の理観に対して、立相住心の事観を述べるのに「指方立相」を説いたのである。もとより指方立相の語句が直接出されるのは観門についてであるが、その語義は広く阿弥陀仏の浄土の特色を説示する言葉として用いられているのである
ここで説き示される指方立相の浄土こそ、凡夫の成仏のための世界なのである。このことを『法事讃』には「一切仏土皆厳浄、凡夫乱想恐難生。如来別指西方国。従是超過十万億。七宝荘厳最為勝。」といわれている。
つまり、指方立相の阿弥陀仏の浄土こそ大乗仏教の究極態としての真空妙有の世界なのである。従って最も勝れた悟りの世界なのである。ここに罪濁の凡夫が、最勝の浄土に往生せしめられる仏道が成就されるのである。

以上

指方立相

令和5年

〔題意〕

阿弥陀仏の浄土について、浄土三部経に方処を「西方」と示し、荘厳相をたてられた意義を窺う。

〔出拠〕

「定善義」第八、像観を正しき出拠とする。

〔釈名〕

「指方立相」とは、釈尊の立場より窺うと、「指方」は指示方処、「立相」は弁立相状である。合釈すれば「指方立相」とは、釈尊が阿弥陀仏の浄土の方処を、此土からみて西方と指示し、浄土の荘厳相を教示されたという意味になる。一方、阿弥陀仏の立場より窺うと、「指方」は指定方処、「立相」は建立相状である。よって、此土からみて西方に阿弥陀仏が四十八願所成の荘厳世界を建立されたことをいう。

〔義相〕

一、浄土三部経に「西方」と説く意義

『大経』には、阿難の問いに対して、釈尊は、「今已成仏現在西方。去此十万億刹。其仏世界名曰安楽。」(『聖典全書』一・三二)と、方角・距離・名前を説示されている。その浄土は七宝に彩られ、清浄に荘厳された勝れた世界である、とも示されている。また、『阿弥陀経』依正段にも同様の説示がある。『観経』では、阿弥陀仏の仏土を「西方極楽国土」(『聖典全書』一・八〇)と説き、浄土の具体的な荘厳相を観察する定善観法において説かれている。
『安楽集』第六大門に、『大経』法蔵発願・弥陀果徳の取意の文によって、十方浄土より西方浄土の方が勝れていることを明かされる中、「於時法蔵菩薩願取西方成仏、今現在彼。」(『聖典全書』一・六三一)と、法蔵菩薩自らが西方を指定して浄土を建立されたと示される。さらに方処が「西」である意味を、その直後(『聖典全書』一・六三二)に、人間の住む閻浮提においては日の出づる場所、すなわち東を生処と、日の没する場所、すなわち西を死処と名づけるので、死後に生まれる場所に思いをはせるのに、西方が便宜であるからと述べられる。そして西方に面を向けて願生するのは、世間の礼儀にしたがうからであるとし、身心あい随う凡夫にとって、他方を向いてしまうと西方願生は困難となるからと示されている。このように『安楽集』には、阿弥陀仏が西方を願取された理由は、凡夫を済度される点にあることを明らかにされている。
また、「定善義」において、善導大師は『観経』所説の日観を釈される中、「直指西方、簡余九域。」(『聖典全書』一・七二一)と説き、釈尊が西方を指示された理由を、衆生に観察対象を識り、心を住めさせるためであるとし、経説や師説をうけて、浄土は西方・日没処に十万億刹を超過して存在していることを説示される。そして『往生礼讃』前序にて、「又如観経云。仏勧坐観・礼念等、皆須面向西方者最勝。」(『聖典全書』一・九一五)と、西方浄土を願生することが最勝であると勧められる。さらに「西」についても、『礼讃』彦琮礼讃に、「已成窮理聖 真有遍空威 在西時現小 但是暫随機」(『聖典全書』一・九四〇)と、阿弥陀仏が西方に浄土を建立されたのは、機すなわち救済の対象である衆生の認識にしたがってなされたのであり、衆生が摂取され、願生すべき世界の存在を表わしている。

一、浄土建立の意義(『大経』の説示)

浄土建立の意義を『大経』の経説に窺うと、「讃仏偈」には、「一切恐懼 為作大安」(『聖典全書』一・二一)「国如泥? 而無等双」(『聖典全書』一・二二)と、法蔵菩薩は、恐れおののく者を安穏ならしめるために、最勝の仏国土を建立したいというお心が吐露されている。また、その直後に、「我当修行摂取仏国、清浄荘厳無量妙土。令我於世速成正覚、抜諸生死勤苦之本。」(同・二二)と、様々な生死勤苦の本を抱えて生きている衆生を済度するために、浄土を建立し成仏したい、という法蔵菩薩のお心を窺える。

一、辺即無辺、則即無相の浄土(『浄土論』『往生論註』の説示)

浄土三部経の説示の多くは、西方に具体的な荘厳相をもつ浄土が説示されるが、一方で『大経』に「恢廓曠蕩不可限極。」(『聖典全書』一・三二)とも示されている。また天親菩薩の『浄土論』の願生偈には、「観彼世界相 勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際」(『聖典全書』一・四三三)とうたわれ、阿弥陀仏の浄土は迷いの世界を勝過した悟りの世界であり、特定の方処に限定されることのない辺際無き世界であるとも述べられている。『往生論註』(『聖典全書』一・四五八)には、「如虚空」「無辺際」を、浄土が無量の衆生を摂取することに限量・限界がないことと註釈されている。あらゆる来生者を摂めとるためには限量があってはならず、このような、辺即無辺の関係として浄土が説かれている。同じく『論註』性功徳釈(『聖典全書』一・四五八)では、法蔵菩薩の功徳が全性修起された世界である、と説示される。さらに浄入願心章(『聖典全書』一・五一六)に、浄土は三厳二十九種の具体的な荘厳相によって示される願心荘厳の世界、すなわち広相である一方、さとりの世界であるから、相対的な分別・差別を超えた真実の世界であることを一法句すなわち略体によって説示され、これらの関係を広略相入、二種法身をもって、由生由出・不一不異の関係で示されている。つまり、相対的な分別・差別を超えた唯一絶対の真実が具体的な荘厳相をもって展開し、衆生を摂取する浄土の構造を相即互入の関係にて示されるのである。ここに相即無相、無相即相の浄土のあり方を窺うことができる。

一、無相離念と立相住心(「定善義」の説示と、宗祖の観経隠顕釈)

「定善義」第八像観(『聖典全書』一・七四五)では「法界身」に関して、諸師の理解を、「唯識法身之観」や「自性清浄仏性観」として、無相離念を明かしたもの、すなわち理観であると解釈された。一方、善導大師は浄土の荘厳相を観察する定善観法を説かれる箇所について、『観経』は為凡の経であるから、無相離念の観法とみるのは誤りであり、経説通り事観と捉える。荘厳相をもって浄土を説示されなければ、凡夫には心も及ばないし、願生することさえできない。また、浄土はさとりの境界であり、無生界であるから、たとえ凡夫が実体的な願生によって往生したとしても、名号の力用によって無生の生たる往生を遂げられることが、『論註』の氷上燃火の譬え(『聖典全書』一・五〇六)に明示されている。よって、善導大師は仏語に随順し、具体的な荘厳相によって彩られた他方世界としての阿弥陀仏の浄土を、凡夫は願生し、称名念仏によって往生して、さとりをひらく教えこそが浄土教であることを、明らかにされたのである。

最後に、宗祖が「化身土文類」(『聖典全書』二・一九六)に第八像観を引用された意を窺うと、八万四千の釈迦一代仏教より『観経』の経説を捉え、立相住心さえも難しい末代罪濁の凡夫には、聖道門は不可能な教えである意として、像観の文を転用されている。続く「門余」の釈において、聖道門の立場とは異なり、一切衆生を済度する本願一乗法を説き示されるのである。

以上

執持名号

平成18年

〔題意〕

『小経』修因段について宗祖は准知隠顕の釈をなされた。隠顕釈による執持名号の釈意を明らかにする。

〔出拠〕

・『阿弥陀経』修因段

「聞説阿弥陀仏 執持名号 若一日(中略)若七日一心不乱」(『真聖全一、六九)等。

・『本典』「化身土文類」本、

「経言執持亦言ー心 執言彰心堅牢而不移転也 持言名不散不失也 一之言者名無二之言也 心之言者名真実」(『同』二、一五七)等。

・『略典』(『同』二、四五三)
・「化身土文類」本、狐山『疏』の文(『同』二、一六二)
・(関連文)
「易行品」(『同』一、二五八)、
『往生礼讃』後序(『同』一、六八三)、
『法事讃』(『同』一、五九七)、
『往生要集』下末の往生階位(『同』一、八九八)、
『漢語灯録』(小経釈)(『同』四、三六六)、
『唯信鈔文意』(『同』二、六四九)

〔釈名〕

「化身土文類」に「執は心堅牢にして移転せず、持は不散不失に名づく」とあり、『略文類』もほぼ同じ。狐山智円の『阿弥陀経義疏』には「執は執受、信力の故に執受にして心に在り。持は住持、念力の故に住持して忘れず」と釈す。
要するに、執持の「執」とは堅固如実に名号を領受し、「持」とは憶持して忘れず相続するの義である。「名号」は南無阿弥陀仏、本願成就の果名であり、所聞所信所称の法体をあらわす。

〔義相〕

一、化身土文類の釈

『小経』所説の執持名号を、宗祖は『本典』「化身土文類」真門釈に解釈されている。そこには、准知隠顕、嫌貶開示の釈がなされてある。よって、執持名号義をも隠・顕の二釈をもって解釈するのである。

二、准知隠顕の釈義

准知隠顕とは、「『観経』に准知するに、この『経』にまた顕彰隠密の義あるべし」と示し、「顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む」等とし、「彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無礙の大信心海に帰せしめんと欲す」とお示しである。『観経』に隠顕釈がみられるように、『阿弥陀経』も『観経』に准知して、この修因段に隠顕釈を用いられる。直接的には『観経』の下三品の念仏と付属の持名に准知する。即ち『小経』の修因段に「不可以少善根」は『観経』の諸行を指し、『小経』は多善根多福徳の念仏を説くとするが、受持する機に熟未熟があり、熟機は直ちに他力仏願の念仏に入るが、未熟の機は諸行を廃しても自力心の機執をもって名号を修する故に自力称名となる。これが顕説の真門自力念仏である。『観経』の定散心に准知して顕説真門を見てゆくのである。『小経』に説く依正二報は真実であるが、この修因段のみ隠顕がみられるのは、多善根の念仏をすすめ、一日七日の念仏の功を策励する行業と、臨終来迎の益が説かれているからである。

三、嫌貶開示の釈義

嫌貶開示とは、顕説の所談で、一切諸行の少善根を嫌貶して善本徳本の真門を開示すと述べられてある。宗祖が真門念仏とみられる根拠は『小経』の『襄陽石碑経』の「多善根多功徳多福徳因縁」の文である。一切諸行少善根を往生不可と嫌貶し、真門念仏を開示するについて疑難が生じる。即ち、諸行少善の不可得生は、真実の報土に対していわれるならば、真門自力念仏も不可得生といわねばならない。もし真門念仏は化土得生というならば諸行もまた化土得生である。化土に対すれば諸行を不可得生とはいえないからである。要するに、諸行は真土にのぞめて不可得生と説かれたものである。ただし、真門は真土にのぞめて開示するのではなく、名号は元来、頓教であるが、自力定散の機は、多善根功徳と執じて自力策励する漸機である。機の側から自力称名としている。仏はこの機執に関せず、信疑廃立もいわずして来迎の益をあらわす。故に真門と判ずる。これを世尊の意として「真門を開示し、自利の一心を励まして難思往生を勧む」と判ぜられたのである。

四、顕説の執持名号義

執持名号の意義について、多く孤山の釈を基本に釈してある。要するに、執持を心念ととれば心に名号を憶念して忘れず、称名ととれば誦念して忘れず、若一日等はその行時を示すと、善導大師の『法事讃』(「化身土文類」引文)、『往生礼讃』及び源空上人の『小経釈』等、総じて執持名号は称名行として釈されている。
宗祖は修因段に隠顕釈を用いて、執持名号にも隠顕の両釈がみられる。 顕説の釈意によれば、執持名号とは第二十願の植諸徳本と同じく、自力心をもって名号を称念する意である。「化身土文類」に引かれる元照師の『義疏』に「もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なり」と、自力の信は多善根多功徳の名号を憶持して忘れず、一日七日と策励していく相をいう。執持は口業に持(たも)つの義であり、顕説自力の信は起行の一心であって下の一心不乱と同じ。念々策励して、修する一心なるが故に「自利の一心を励まして難思往生を勧む」と示されたのである。

五、隠彰の執持名号義

次に隠顕の釈義は宗祖は真実難信之法、無碍の大信海と示してすべて信心に約して明かされる。故に執持と一心と同義とし、執は心、堅牢にして移転せず。持は不散不失に名づく。一は無二、心は真実と解釈される。宗祖が「化身土文類」や『略典』に信に約されたのは信心為本の宗義を開顕するについて執持を即一心と釈顕されたのである。信行は本来不離であって『往生要集』の釈は能修の心より「執心牢固なれば定んで極楽国に生ず」と示された。
要するに、信に約すれば一心に同じ。若一日若七日は信相続というべく、七日に限らない。行に約すれば若一日乃至七日の称名をあらわす。ただし、上の「聞説」は名号を領受したる執持の一心なりと顕す隠顕釈に明示されている。

以 上

出世本懐

平成19年

【題意】

「教文類」等に『大経』の出世本懐を論じられた祖意を明らかにする論題である。

【出拠】

『大経』の発起序(『真聖全』一-四頁)の

如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。

という経文を親鸞聖人が「教文類」『真聖全』二-二頁)に出世の大事(本懐)を顕わされた言葉であるといわれたのが出世本懐論の根本出拠である。その他多くの文を挙げることができるが略する。

【釈名】

出世本懐の「出」というのは「出現」であり、「世」は世間のことで、今は迷いの境界である三界をさす。如来が、大悲を発して三界に出現されることをいう。
本懐の「本」とは「根本」の義、「懐」は「心に思うこと」「意趣」の意味で、根本意趣、本意のことである。つまり、釈尊のみならず三世の諸仏が、迷いの境界に出現される本懐・本意をいう。『大経』を説いて、誓願一仏乗を顕示する為であるということを「出世本懐」という。

【義相】

一、『大経』を出世本懐経と見る文証

①「恵以真実之利」の意味
先ず、『大経』を出世本懐経とする文証は、「教文類」等に示されているように、「発起序」の文である。『大経』を説こうとされた釈尊は五徳の瑞相を示現し、その所以を尋ねた阿難尊者に、「如来、無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。」と答えられたお言葉によって『大経』が出世本懐の経であることを知ることができる。なお『尊号真像銘文』には、その如来を釈して「如来と申すは諸仏と申すなり」といわれているから、釈尊のみならず一切諸仏の出世の本意を開顕する経典と見られていたのである。

ところでこの経を説いて衆生に与えようとされているのは、「真実之利」であると言われているが、それを『尊号真像銘文』には「仏の世に出でたまふゆゑは、弥陀の御ちかひを説きてよろづの衆生をたすけすくはんとおぼしめすとしるべし」といい、弥陀の本願を指しているといわれている。それは、『大経』所説の法義の肝要を付属する付属流通分の教説と対望されたからである。そこには、

仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなわちこれ無上の功徳を具足するなり。
といわれていた。すなわち衆生は第十七願成就の諸仏讃嘆の名号、すなわち『大経』の説法を聞いて、第十八願成就の名号を信受奉行し、往生即成仏の大利を得ると言われているのである。それは序分に、「真実之利」を恵むといわれてものと首尾照応しているとしなければならない。

その大利について、胎化段では、仏智不思議を疑って、諸行、もしくは自力念仏を行ずる疑心の善人は、胎生して「大利を失う」と誡め、仏智不思議の本願を信じて化生の利益を獲よと勧められていたものである。要するに「真実之利」とは、仏智不思議の本願を信受して獲る大利無上の功徳を指していたのである。こうして『大経』は、一切の衆生を平等に利益するために第十七願に乗じて本願の名号を説かれた経であって、釈迦、諸仏は、この経を説くことを出世の本懐とされていると親鸞聖人はいわれたのであった。

②光闡道教の意味
ところで『大経』の出世本懐の文の中に、「光闡道教」という言葉があるが、『尊号真像銘文』末(広銘文、『真聖全』二‐六〇一頁)にも、『一念多念文意』にも、いずれも「光闡道教」を省略して「如来所為、興出於世、欲拯群萠、恵以真実之利」という文章にして出世本懐が論じられている。そこから見れば、「光闡道教」という言葉は、出世本懐の中には入らない言葉であるとみなければならない。そのことについて、『六要鈔』一(『真聖全』二‐二二一頁)には、

「光闡」等とは、教法人を利するを名て道教と為す、理を証して物を益するを以て真実と為す。光は廣也、闡は暢也、恵は施也。諸師意今宗義に依に「道教」と言は、光く一代を指す、益五乗に亘る。「真実之利」とは、此の名号を指す。

と釈されている。まず光闡道教とは成仏道を説くことをいい、その教えを実践して自利利他することを真実之利というと見る諸師の釈を挙げ、後に真宗の宗義による釈として、光闡道教は聖道一代の教法を指し、「真実之利」とは、本願名号の法門、すなわち『大経』の法門を指すといわれている。道教を聖道教とする理由については明らかにされていないが、親鸞聖人が、光闡道教を省略して出世本懐を論じておられる意を承けて釈顕されたものにちがいない。

先哲は、さらにその祖意を探って「欲」の字のあり場所から見込まれている。もし「光闡道教」も出世本懐をあらわしているとすれば、諸仏の能欲を顕わす「欲」の文字が所欲を顕わす「光闡道教」の前に置かれていなければならない。しかるに経文は「欲拯群萠恵以真実之利」といわれている。これによって諸仏の所欲は光闡道教にはなくて、「拯群萠恵以真実之利」にあったといわねばならないといわれている。

なお先哲は『大経』には、「道教」の用例がこの他に三カ所(『真聖全』一‐三頁、二八頁、三四頁)あり、経末には法滅の時に滅する「経道」という言葉もあるが、何れも「三乗法」をあらわす言葉として用いられているという指摘もある。ただし、阿弥陀仏の浄土での説法を道教といわれた場合は、三乗であっても三一融即しているから三乗のままが一乗であるような教法で、穢土の隔歴不融の三乗とは違っているといわれている。いずれにせよ『大経』では道教を三乗教の意味で用いられているといわれている。

二、『大経』が出世本懐経と見る理証

第一に、釈尊を初め、十方の諸仏が『大経』を説かれるのは、第十七願に応ずるからである。諸仏は自力成仏の法門をさしおいて、阿弥陀仏の本願他力の法門に帰し、本願を讃嘆することを本意とされているのである。

第二に、『大経』上巻の最後に説かれた華光出仏の経意からいえば、十方諸仏は、浄土の蓮華のひかりが十方の世界にいたって、無数の仏陀となって、十方の衆生に仏道を説くといわれている。浄土から来現された諸仏の出世の本意が『大経』にあることはいうまでもない。

第三には、親鸞聖人は、「諸経和讃」に、釈尊を久遠実成の阿弥陀仏の応化身と判定されている。それは釈尊のみならず、三世にわたる一切の諸仏に通ずることであるから、諸仏は本仏弥陀の本願を説くことを本懐とされていることになる。この説は『口伝鈔』の開出三身章において極成されていく。

三、『六要鈔』の「教の権実」と「機の利鈍」

日蓮宗徒と対論して論破された存覚上人は、『六要鈔』一に、「教の権実」と「機の利鈍」に約して出世本懐を論じられている。「教の権実」の教とは教法のことであり、権実とは権仮方便教と真実教のことをいう。三乗は権、一乗は実という天台宗系の教判論によれば、一乗仏教を説くという『法華経』を出世本懐と見なして真実教とし、三乗法を説く爾前の諸教を権仮方便と判定し、非本懐と見ているのを挙げたものである。それゆえ「これ法華の意なり」といわれている。しかしこれは聖道門内の教判であって、聖道門外に独立している『大経』の法門とはかかわりのないことであった。何故ならば『大経』の法門は機の利鈍に依って説かれている教であって、教の権実によって判ずべきものではないからである。

「機の利鈍」の、利根とは、仏法に鋭敏に反応し、深い理解能力を持つものをいい、鈍根とは仏教について鈍感で浅薄な理解能力しか持たず、自力修行に適していないものをいう。ところで一切衆生の中には、利根のものは極めて少なく、鈍根無智のものは圧倒的に多く、従って権教であれ、実教であれ、自力聖道の法門で救われる気はきわめて少なかった。それゆえ阿弥陀仏は、平等の大悲に催されて、一切の衆生を平等に救って涅槃の浄土へ往生させ成仏させようと誓願し、鈍根無智の凡夫の救いに焦点を合わせて、本願力廻向の本願の名号を成就されたのであった。こうして自力聖道門に比べて、阿弥陀仏の本願他力に救われるものは圧倒的に多いことは明である。

ところですべての如來のさとりの本質は自他一如の真如に契った悲智円満の心であるから、その本意は、善悪、賢愚の隔てなく、一切の衆生を平等に救って、涅槃の領域にいたらしめようという一点にあった。それゆえ阿弥陀仏の本願こそ一切諸仏の本意に契った法門であると言わねばならない。諸仏が第十七願に乗じて本願の名号を同心に咨嗟される所以である。それが一切の諸仏の本意に契った、出世本懐の法門だったからであると言うのが存覚上人の説であった。

こうして存覚上人は巧みに「教の権実」という与門と、「機の利根」という奪門という、与奪法門を建てて、『大経』の出世本懐論を確立して行かれたのであった。

【結論】

そもそも出世本懐の教であるということは、仏の随自意の教であるということを意味していた。仏の随自意の教を真実教と言い、随他意の教を方便教というのであるから、これによって『大経』が真実教であることが確定する。それゆえ「教文類」は、「しかればすなはち、これ真実の教を顕す明証なり」と引文を結ばれているのである。

なお「化身土文類」には、『観経』と『小経』には隠顕があるが、その隠彰の実義から云えば、『観経』は釈迦微笑の素懐を彰わし、『小経』は無問自説という説教形式をもって、それぞれ『大経』と同じく本願他力の法義を説かれた出世本懐の教であり、真実教であるといわれている。

以 上

出世本懐

令和5年

【題意】

如来の出世本懐は、ただ阿弥陀仏の本願を説くためである、と明示された祖意を窺う。

【出拠】

「教文類」全体に「出世本懐」が顕かにされているが、それを端的に示されたのが「正信偶」の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」である。

【釈名】

「出世」とは、出現世間の意味であり、仏が迷いの世界、すなわち五濁悪世の娑婆世界に出現することをいう。「本懐」とは、根本の思い、すなわち、かねてから抱いている願い、本意という意味である。合釈すると、「出世本懐」とは、仏が五濁悪世の娑婆世界に出現された本意ということである。

【義相】

一、「教文類」の所顕

「教文類」全体が宗祖の出世本懐論である。ここでは、釈尊が五濁悪世の娑婆世界に出現された本意を、御自釈および正依『大経』と異訳『大経』のみでほぼ顕されている。まず御自釈において、『大無量寿経』が真実教であると明示し、この経こそが釈尊の出世本懐経であることを、『大経』の大意として、「釈迦出興於世、光闡道教、欲拯群萌恵以真実之利。」(『聖典全書』二・九)と示される。『大経』発起序の文をほぼそのまま用いられての造文であるが、この文の意について、『一念多念文意』では、「『大経』(上) には、《如来所以興出於世、欲拯群萌、恵以真実之利》とのたまへり。この文のこゝろは、《如来》とまふすは諸仏をまふすなり。【中略】《真実之利》とまふすは弥陀の誓願をまふすなり。」(『聖典全書』二・六七三)とあり、釈尊のみならず諸仏の出世の本意が、弥陀の本願を説くことにあったことを明らかにされる。また、同じ『一念多念文意』では「弥陀選択の本願、十方諸仏の証誠、諸仏出世の素懐、恒沙如来の護念は、諸仏咨嗟の御ちかひをあらはさむとなり。」(『聖典全書』二・六七〇)と示され、釈尊の『大経』の説法も十方諸仏の護念も第十七願の具体相であると見ていかれる。さらに「教文類」の御自釈には、『大経』の宗体が、本願為宗、名号為体であることが示され、阿弥陀仏の本願、すなわち第十八願のいわれを説くことが肝要であり、名号南無阿弥陀仏が経の本体・本質であることを、宗祖は明らかにされている。この宗体論の後、『大無量寿経』こそが出世本懐経であることを『大経』の経文自体により証明していかれるが、具体的には発起序の五徳瑞現である。五徳瑞現とは、釈尊が『大無量寿経』をお説きになる前のお姿が五徳に安住し、いまだかつてない瑞相を顕されていることを阿難の問いを通して説示される箇所である。特に「住仏所住」(『聖典全書』二・一〇)は『如来会』の「入大寂定」(『聖典全書』一・二九六)にあたり、大寂定は大涅槃(『涅槃経』巻三〇、大正一二・五四五上)のことである。ただ今は、釈尊が阿弥陀仏の妙果を念ずる定、すなわち弥陀三昧に入られている融本の釈尊であることを示されている。五徳瑞現をもって『大経』を説法される釈尊が、普段と違う仏の威儀をもって示されているのである。さらに続く引文では、出世の本懐として、群萌を拯うために「真実之利」を恵もうとおもわれて、釈尊はこの娑婆世界に出現された、という先の御自釈の根拠の文が引かれている。この「真実之利」についても弥勒付属の文に「為得大利」(『聖典全書』一・六九)と説示されるように、南無阿弥陀仏の名号によって恵まれる利益である。

一、『六要鈔』説示の出世本懐論

存覚上人は日蓮宗徒と対論される中で、日蓮宗徒が『法華経』こそが釈尊の出世本懐経であるとし『大経』等を爾前の教とみていたのに対して、上人は末法の時代に鈍根無智の凡夫を救済する教えに焦点を当て、『大経』こそが釈尊の出世本懐経であることを、与奪の論法を用いて説示される。すなわち、『六要鈔』「教文類釈」(『聖典全書』四・一〇二三) において、[教の権実]と[機の利鈍]との二つの観点から出世本懐を論じられるのである。「教の権実」は、聖道門内において、権とは権化方便教すなわち三乗法であり、実とは真実教すなわち一乗法を説く『法華経』を指す。天台宗の教判では、五姓各別に基づく三乗法は爾前の教すなわち方便教と見、一切皆成を説く『法華経』こそが真実教であり、釈尊の出世本懐経であるとする。これは、『法華経』「方便品」の「諸仏世尊、唯以一大事因縁故出現於世。」(大正九・七上)との経説から窺える。釈尊は、一仏乗の『法華経』を説いて一切皆成させるためにこの世界に出現された、と天台大師智顗は見て、『法華経』を釈尊の出世本懐経であるとされた。存覚上人は、聖道門中における教法の権実の点より見れば『法華経』が出世本懐経であることを諍わない。しかし、機の利鈍の点から見ると、利根の者は少なく鈍根無智の者は多いので、聖道教において出離できる者は少ない。浄土の教門は、凡夫救済に焦点が当てられた法門であることを善導大師の所説によりながら示し、諸仏の大悲は、ひとえに鈍根無智の凡夫たる苦者へと向けられるので、その点より窺えば釈尊の出世本懐経はこの『大経』であると存覚上人は示されるのである。

聖浄二門

平成13年

〔題意〕

聖浄二門の意を窺い、聖道門によらずに浄土門によるべき旨を明らかにする。

〔出拠〕

『安楽集』第三大門に

「問ふて曰く、一切衆生皆仏性有り。遠劫より以来応に多仏に値ふべし、何に因てか今に至るまで仍を自ら生死に輪回して火宅を出ざるや。答えて曰はく。大乗の聖教に依る良に二種の勝法を得て以て生死を排はざるに由ってなり。是を以て火宅を出ず。何者をか二と為る。一には謂はく聖道、二には謂はく往生浄土なり。其の聖道の一種は今の時証し難し。一には大聖を去ること遥遠なるに由る。二には理深く解微なるに由る。」(真聖全一、四一〇)

とあり、『選択集』二門章にこの文が引用され、その意が継承されている。 宗祖は『教行信証』「化土巻」に

「凡そ一代の教に就いて、此界の中にして入聖得果するを聖道門と名づく。難行道と云へり。此の門の中に就いて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・蜜、竪出・竪超有り。則ち是れ自力、利他教化地、方便権門之道路也。安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく。易行道と云へり。此の門の中に就いて、横出・横超、仮・真・漸・頓、助正・雑行、雑修・専修有り。」(真聖全二、一五三)

とある。

〔釈名〕

「聖道」とは、聖入所修の教えである此土入聖の法門、「浄土」とは往生浄土の法門であり、末法五濁の為凡の教である彼土得証の法門である。
「二門」とは、聖道門と浄土門の二門のことである。「門」とは門別の義と、通人の義がある。それ故何れも如説に修行すれば、仏果に到ることが出来る。

〔義相〕

①聖道門に依らず、浄土門に依る理由

『安楽集』第三大門に示される二由一証に示されるように、末法五濁の凡夫には、浄土門が通入すべき唯一つの道である。

②聖浄二門の難易と勝劣

法然上人においては、浄土門の念仏に勝易の二徳が出され、念仏の法こそ、この私には最勝至易の法とされている。

③聖道の慈悲と浄土の慈悲

聖道の慈悲は自らの実践によるが、浄土の慈悲は仏の大悲を領受せるもので、自らにおいては「いかにいとほし不便とおもふとも」とあり、この不完全の自覚こそ汝の人格を是認する開かれた実践の根底なるものを与えられるのである。

④聖道得道と聖道無得道

聖道教を軽んずるものではないが、私にとっては浄土門の得道しかないという立場が、宗祖・蓮師の立場である。

以 上

正定滅度

平成13年

〔題意〕

浄土真宗は現生正定聚・彼土滅度の二益を語るのであるが、現生(此土)においては、滅度の果を一分たりとも証得するものでないことを明らかにする。

〔出拠〕

『教行信証』「証巻」には

「然るに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の羣萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚之数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。」(真聖全二、一〇三)

とあり、『六要鈔』には

「問ふ。定聚・滅度は是れ二益歟、又一益歟。答ふ。是れ二益也。定聚といふ者、是れ不退に当たる、滅度と言ふ者是れ涅槃を指す。」(同前三二一)

とあり、また『御文章』には

「問ていはく、正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。答ていはく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。」(真聖全三、四〇七)

とある。

〔釈名〕

「正定」とは正定聚の略であって、正定聚とは邪定聚・不定聚に対し、滅度に至ることに正しく定まった聚類の義である。
「滅度」とは大涅槃であって、生死の迷いの因果を滅した仏果をいう。

〔義相〕

①正定聚を現益とし、滅度を当益とする理由。

第十一願に正定聚と滅度が誓われてあり、その成就文には正定聚が説かれているが、第十一願の当面では正定聚も滅度も共に彼土の益として示されている。
然るに宗祖は、『如来会』の第十一願成就文によって正定聚を現生の得益とする。
何故そうなるかといえば、名号は悲智万行を円具する法であるから、これを領受した時、その機上に仏因が円満して、彼土に往生すると同時に滅度の大果を得る。したがって、滅度に至るまでの因の決定、すなわち正定聚は現生でいわれ、果の顕現が滅度である。

②正定聚の現当両義

経釈の上に彼土における正定聚が示されてあるのは、滅度の果を得た後の広門示現の相とする。

③滅度密益、一益法門を否定する理由

名号を領受することは、仏果を開くべき因徳が衆生に具すことであって、現生にあって滅度の果を一分たりとも証得することはできない。穢土であり、煩悩具足の凡夫であるかぎり、証果は彼土である。それ故「信巻」の便同弥勒釈には「臨終一念のタベ、大般涅槃を超証す。」(真聖全二、七九)とある。

④現生正定聚の具体相

現生十種の益の中に、現実に具体的に生きる意味が与えられている。

以 上

正定滅度

平成24年

〔題意〕

浄土真宗の法義において、此土では現生正定聚の益を得、彼土では滅度の益を得ると説かれている。したがって、此土の益と彼土の益と は明確に区別されるので、此土では一分たりとも滅度の利益を得ることはないということを明らかにする。

〔出拠〕

『仏説無量寿経(大経)』の第十一願文には、

「たとひわれ仏を得たらんに、国の中の人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずば、正覚を取らじ」(『真聖全』一 ・九)

とあり、第十一願成就文には、

「それ衆生ありて、かの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり」(『真聖全』一・二四)

とある。また、『教行信証』「証文類」の大証釈には、

「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」(『真聖全』二・一〇三、『聖典全書』二・一三三)

とある。

〔釈名〕

「正定滅度」の「正定」は、願文上では「定聚」であり、「正定」の語は『御文章』(一帖目第四通)(『真聖全』三・四〇七)に拠る。定聚及び正定は、正定聚の略であり、不退の意、必定の意をあらわす。したがって、正定とは、必ず往生・成仏することが決定している聚類を意味し、邪定聚及び不定聚に簡ぶ呼称である。
また、滅度とは、煩悩を滅して生死海を渡るという意であり、仏果を得るということをあらわす。

〔義相〕

『大経』の第十一願文では、得生のものは正定聚に住して、必ず滅度に至るという意であり、成就文では、得生のものは正定聚に住する と述べて、滅度については示されていない。したがって、滅度も正定聚も彼土の益と窺われる。
ところが、宗祖は、第十八願において、悲智円具の名号を聞信する時、仏因円満すると誓われているから、現生正定聚とされる。それは、『如来会』の第十一願成就文の意を受けて、邪定聚・不定聚は、不可得生の此土の聚類であることから、正定聚についても此土の聚類であると看取されているのである。また、「易行品」には、阿弥陀仏の本願について、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三貌三菩提を得」(『真聖全』一・二五九)と示し、「仏の無量力功徳を念ずれば、即の時に必定に入る」(『真聖全』一・二六〇)として、信方便易行の現生不退を説いていることから、この意を受けて、信心を得ると同時に、仏果に至る身と定まるので、正定聚は現生の益であることが明らかとなる。
宗祖の聖教から窺うと、「信文類」の信一念釈には、本願成就文を釈して、「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超へ、かならず現生に十種の益を獲」(『真聖全』二・七二、『聖典全書』二・九四)とあり、先に当益を示して、後に現益をあげられている。また、追釈においても、横超断四流釈において滅度の益を示し、次いで、真仏弟子釈を展開される。これらは、浄土真宗における得益が、彼土の証果を本とし、此上では当果決定する正定聚に住することであると窺う。同様に、『一念多念文意』の第十一願及び成就文の釈には、第十一願の中心は必至滅度であることを明らかにするために、「定聚にも住して」(『真聖全』二・六〇六、『聖典全書』二・六六三)とあり、正定聚は現生の益であることを明らかにするために、「かのくににむまれむとするものは」(『真聖全』二・六〇六、『聖典全書』二・六六四)とある。
また、現生正定聚について、『大経』に「次如弥勒」(『真聖全』一 ・四四)とある意を承け、真仏弟子釈には便同弥勒釈を施し、『御 消息』その他には、「弥勒におなじ」「如来とひとし」「諸仏とひとし」等と示される。これらは、他力信心のものは、此土において不退の位 に定まり、得生後に仏果を得るということをあらわしている。そして、仏果を得るという当益については、「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超 証す」(『真聖全』二・七九、『聖典全書』二・一〇三)とあるように、命終と同時の事態であると示されている。
したがって、正定聚とは、「証文類」大証釈に、「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る」とあるように、聞信の一念に摂取の光益を蒙り、名号大行が衆生心中に領受されて仏因円満するから、得生後に仏果を証得するということであって、此土における果徳顕現ということでは決してない。
また、『大経』の第十一願文及び成就文上では、彼土正定聚であり、『往生論註(論註)』の妙声功徳釈には、「剋念して生ぜむと願ずれば、亦往生を得て、則ち正定聚に入ると」(『原典版』七祖篇、一三五)とあり、『一念多念文意』にも、「またすでに往生をえたるひとも、すなわち正定聚にいるなり」(『真聖全』二・六〇七、『聖典全書』二・六六五)とある。これらは、究竟仏果を得た後の、因相示現の果後の広門相を顕したものである。すなわち、彼土正定聚は、正定即滅度であるから、従果降因の示現相ということである。

正助二業

〔題意〕

 善導大師にはじまり、法然聖人、親鸞聖人と伝承されてきた浄土真宗の行業論において、正助二業論がしめる位置とその意義について論究する。

〔出拠〕

①『散善義』 就行立信釈
②『選択集』 二行章、三輩章、三選の文
③「化身上文類」 要門釈
④『愚禿鈔』下巻
その他

〔釈名と物体〕

 正助二業の正とは正定業の略称、助とは助業の略称である。正定業とは、正は正当、正直の義、定とは決定の義、業とは行業の義で、正定業とは正当なる決定往生の因となる行業ということである。しかし助に対して正と言う場合は、補佐に対して君、長、主の義になる。
 助とは扶助、資助、補佐の意味で、主なる者を助けて事業を成就させるはたらきを持つものをいう。したがって主であり、君長である称名を扶助し、資助する行業を助業という。しかし助を随伴の意味で解釈する人もある。もっとも助に随伴の義は直接には出てこないから、宗義によって与えた釈名といえよう。
 なお正定業の行体は、五正行中の第四の称名をいい、助業の行体は読誦、観察、礼拝、讃嘆供養の四行をいう。ただし讃嘆と供養を分ければ五行となる。

〔義相〕

① 善導大師の正助二業説
 『散善義』の深心釈下に就行立信釈を施し、所信の行法を簡択して、一切の往生行を正行と雑行に分判し、雑行を捨てて正行に帰すべきことを明かし、さらに正行について正定業と助業とを分別して、所信の行業は称名一行であるといわれている。称名のみを正定業とするのはそれが第十八願所誓の行であり、決定往生の行業であるからである。
 なお正行とは正当な往生行ということで、阿弥陀仏とその浄土を所対とした本来の往生行をいい、雑行とは、本来は此土入聖の行であったのを往生行に転換したもので、非往生行を往生行とした、邪雑の行であるから雑行という。またその行体は諸善万行と言われるように雑多であり、また人天乗、三乗の行が雑った雑?の行であるから雑行といわれるのである。詳細は正雑二行論に譲る。なお就行立信釈では、正定業を主として正助二業を修する者には、親、近、憶念不断(無間)の徳があって、決定往生の果を得るが、雑行は疎、遠であり、憶念間断するから、決定業ではないとされている。
 『往生礼讃』前序には、安心と起行と作業という三門をもって浄土教の信行を顕し、六時礼讃といわれるような浄土教儀礼を教義的に位置付けられていた。安心門とは往生の因である信心を安立する法門ということで、『観経』の三心で示されている。その三心は深心に帰し、深心は煩悩具足の凡夫が本願の称名を決定往生の行と信ずるという二種深信としてあらわされているが、それは称名一行を正定業とする「散善義」の就行立信釈と同じであった。起行門とは安心門において確立した念仏往生の信心が相続して行を起こしていくありさまを示したもので、『浄土論』によって礼拝、讃嘆、観察、作願、回向の五念門として示される。しかし作願・観察二門の順序を変えて止観中心の行業体系と区別し、また讃嘆門下の称名を安心門にくりあげて広讃とし、五念門全体を念仏往生の信心の相続相としての浄土教儀礼を意味付けられたのであった。作業門とは、起行における能修の心得と修相を四修として示したものである。
 こうして安心門では念仏往生の正因決定を二種深信を中心に明かし、起行門と作業門とでは仏恩を念報し自行化他する相続行としての儀礼を中心に明かされていた。その両者の関係を『往生礼讃』「日中讃」には「五門相続して三因を助く」(『註釈版聖典』七祖篇・七〇四頁)といい、『法事讃』上には「三因・五念畢命を期となし、正助・四修すなはち刹那も間なく」(『同右』五〇九頁)等といわれているように両者は所助と能助のあり方をしていると見られていた。それと合わせると「散善義」の称名正定業は、安心門から立つ往生の業因をあらわす名であり、助業は浄土願生者として相応しい相続起行を顕わす宗教儀礼等の行業の実践を勧励する名目であったことがわかる。すなわち正定業と助業とは業因門における対目ではなかったことがわかる。ただし起行門では、正定業たる念仏を中心に五念門行が相続していくから、両者の間に主伴の関係が成立する。それを正業と助業といわれたのであろう。

②法然聖人の正助二業説
 法然聖人は、「散善義」の就行立信釈をうけて、二行章では正雑二行を廃立するために五番の得失を判定されている。その場合、五番の得を正助二業の得として顕わされているが、しかしそれは助業が持っていた得ではなくて称名の得を助業に及ぼしたものであった。それは不廻向廻向対を論証するのに六字釈を引用し、名号の徳義として廻向があるから、機の廻向は不用であるといわれていることで明らかである。また正定業と助業とでは、本願行と非本願行の違いがあると明言し、また三輩章では廃立・助正・傍正の二義の中では、善導大師によって廃立の一義によって業因を決着されていた。特に三選の文では、聖浄二門、正雑二行の取捨を明らかにし、最後に正助二業について、「なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし」といい、正助二業の選択を明かして「称名必得生、依仏本願故」と断定されていた。これによって、法然聖人が、選択本願によって往生の業因を顕わされる時には、雑行は勿論、助業も廃して、ただ称名一行による報土往生を主張されたことがわかる。それをまた「諸人伝説の詞」には「本願の念仏は、ひとりだちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。」(『真宗聖教全書』四・六六二頁)といわれたのであった。

③親鸞聖人の正助二業説
 親鸞聖人は、法然聖人の意を受けて、『尊号真像銘文』に、三選の文の「なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし」を「正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。選応専正定といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり」と釈されていた。「助業を傍らにせよ」を「さしおくべし」と言い替えることによって、助業と正定業の廃立の関係が決定的になる。また「二心なく」とは一心を顕わしているから、三選の文は、行は称名一行、信は無疑の一心という一行一心を顕わすと領解されていたことが分かる。
 『教行証文類』でもこの筆格は変わらない。真実の行信を顕わす「行文類」では、助正の分別はされず、専ら念仏一行についてその徳を讃嘆し一乗の行法を顕わし、「信文類」でも、助正の沙汰はされず、三心を一心に収めて機受の相を顕わされていた。真実の行信は、五正行でも助正でもなく、無疑の一心をもって、名号の一行を受行するという一行一心の法門として顕わされていたのである。
 それに対して雑行はもちろん五正行、助正二業、専雑二修等はすべて「化身上文類」で詳細に明かされていく。「化身上文類」要門釈に第十九願を釈して「この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出せり」(『註釈版聖典』・三九二頁)といわれていた。「正助雑の三行」は要門から出た方便仮門の行であると言われるのである。それを釈して「正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり」といわれている。ここで除かれた「名号」とはいうまでもなく正定業である弘願他力の称名であって、それは要門から出た行ではなく選択本願から出た本願力廻向の行であったから除かれたのである。「行文類」では、五願開示の上で「然るにこの行は大悲の願より出でたり」と言い、第十七願によって回向された行であると言われていた。それを称名と言わずに敢えて名号と言われたのは、称名即名号であるような真実大行であったからである。「化身土文類」では、この後すぐに、「すでに真実行のなかに顕わしをはんぬ」といわれた横超の大行を指していた。
 それに対してここで「五種の正行」とは、五正行の一々を専修する自力の「五専」を指していたといわねばならない。また「助とは名号を除きて以外の五種これなり」といわれたのは、四種の助業に、機執によって万行随一の位に落在している要門位の称名を加えて、五正行全体を助業の分斉であるといわれたのである。それは『愚禿鈔』下に、弥陀念仏に定心念仏(観察)と散心念仏(称名)をわけ、正行の散行を読誦、礼拝、讃嘆、供養の四種に分類し、それらをまとめて、「上よりこのかた定散六種兼行するがゆゑに雑修といふ、これを助業と名づく。名づけて方便仮門となす。また浄土の要門と名づくるなり」(『註釈版聖典』・五三〇頁)といわれた釈と照応しているからである。それは助正兼行している五正行は、五行全体が助業並みの要門位の行になっているからである。この場合の助業は行体ではなく分斉を顕わしていた。
 なお親鸞聖人は、正定業と助業とに、本願行と非本願行との区別を付けずに並列して修しているありさまを助正兼行といい、雑修とも名付けられていた。「善導和讃」に
  助正ならべて修するをば すなはち雑修となづけたり
  一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし
         (『註釈版聖典』・六九〇頁)
といわれたとおりである。
 こうして親鸞聖人が助正法門を論じられるのは方便の行信を簡別される時に限り、真実の行信を助正で論じられることはなかった。

称名破満

平成10年度

一、出拠

 『本典』行巻の大行出体釈に「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」とあり、これを承けて諸経からの引文の結びとして「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり」等と述べられる。また、これら二文を合わせたかたちで、『略典』の三法別釈には「大行といぶは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。ゆゑに大行と名づく。このゆゑに称名はよく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」等と示されている。さらに、『高僧和讃』曇鸞讃には「無碍光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願を満てたまふ」とある。これらの基づくところは『論註』下巻の讃噴門釈の「かの如来の名を称すとは、いはく、無碍光如来の名を称するなり。(中略)かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲すとは、かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」等とある文である。この他にも関連する文は数多く見られる。

二、名 義

 「称名」とは称念仏名、すなわち名号を称えることである。すなわち、第十八願に誓われた如実の称名のことであり、『本典』行巻に顕わされた大行をさす。また、「破満」とは破闇満願の略で、衆生の一切の無明をうち破り、往生成仏の志願を満足せしめることである。

三、義相

 宗祖は『本典』行巻の冒頭に「大行とは無碍光如来の名を称するなり」等と、まず大行の内容を明らかにし、続いて所称の名号の徳をあらわす一連の文を諸経から引用して、その結びとして「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と、名号のもつ破満の徳を称名のところで顕わされている。すなわち、破闇満願の徳用は衆生の能称の功によるのではなく、所称の名号に帰せられるべきである。それゆえ宗祖は「満てたまふ」という約仏の点を施して破満の徳が法体名号にあることを示されたのである。

 そもそも行巻の称名破満の釈は、『論註』下巻の讃嘆門釈における名号破満の釈にもとづいたものであることは言うまでもない。すなわち、『論註』は、五念門の中の讃嘆門の称名を明すにあたり、仏の光明について破闇の徳を語り、名号において、無明の闇を破り志願を満足せしむる破満の徳用が明されている。これによって名号の徳義である無碍光如来のいわれにかなって称える如実の称名には、破闇満願の徳がそなわっていることを顕わされるのである。したがって、もしその称名が不知実のものであれば、破満の徳はないと言われる。それが次下に示される二不知・三不信の誡めである。二知・三信は一心に帰するが、行巻および『略典』の称名破満の釈においても、その義を顕わすために称名を名号に、あるいは信心に帰する転釈がなされている。こうして不知実の称名、すなわち本願の信心にもとづかない称名には破満の徳を具すことがないが、如実の称名には名号の徳義である破満の徳用があると釈顕されたのである。宗祖はこの意を承けて称名破満の釈をもうけ、これによって善導・法然両祖から相承された称名正定業説を極成されたのである。破満釈を承けて「称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり」と言われた所以である。

 無明とは、『論註』はおそらく旧訳『華厳経』十地品に「如実に第一義を知らざるが故に無明あり」とか、「真諦の義を知らざる、是を名づけて無明とす」と言われたものに依ったのであろう。すなわち真如実相に背反し、真諦を了知しない無知のことである。『論註』はそれを虚妄なる分別とし、「分別をもってのゆゑに長く三有に淪みて、種々の分別の苦・取捨の苦を受けて、長く大夜に寝ねて、出づる期あることなし」と言われている。このような虚妄分別すなわち無明を破る智慧を権実不二の智慧とし、それが方便法身の名号となって、衆生の無明を破り、往生成仏の志願を満足せしめると言われるのである。

 宗祖の無明という言葉の用例を見ると、「四暴流」の中の無明暴とか、「無明心品」とか、「無明煩悩われらが身にみちみちて」と言われる場合の無明は、真如に背反する無知のことで、仏教で一般にいう無明と同義であるから、痴無明と言いならわしている。しかし、「正信偈」などに「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」等とある場合の無明は、仏智不思議の本願を疑惑する心のことと見なければならないから疑無明と言いならわしている。

 その痴無明は凡夫の地体であるから、機相においては臨終まであり続けるが、疑無明は信の一念に破られる。すなわち無碍光の徳用によって信の一念に疑無明は破られて、往生一定の安堵心を与えられる。しかし、凡夫のままで往生一定といいうるのは、願力の徳用によって無明煩悩が功徳に転ぜられているからである。それは法徳であって、密益としてめぐまれる。それが無明煩悩あれどもさわりなしといえる所以である。こうして、「名を称するに衆生一切の無明を破る」と言われた無明は、法徳から言えば、痴無明が転ぜられることであり、機相からいえば疑無明が摧破されることを言う。

 次に「志願」とは、『論』の「一切所求満足功徳」に「衆生所願楽 一切能満足」とある所願をさし、広く言えば願作・度生の菩提心の満足であり、往生成仏の志願をさしていたと言えよう。

以 上

信一念義

一、出拠

 『大経』下巻の本願成就文に「あらゆる衆生、その名号をききて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」と説かれたものを、『本典』信巻末に信の一念として釈して「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」といい、また「一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり」といわれたものを正しき出拠とする。また『略典』には「乃至一念といふは、これさらに観相・功徳・遍数等の一念をいふにはあらず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり」といい、加えて『一念多念文意』には「一念といふは、信心をうるときのきわまりをあらはすことばなり」と釈されている。

二、名 義

 「信」とは無疑の義で、如来の勅命を領受した疑蓋無雑の心をいう。すなわち本願の三心即一の信楽のことである。「一念」とは極促の時間を示すもので、信心獲得の時のきわまりを意味する。また、信相においてこれを論ずる場合は、「一念」は専一無二の心、すなわち信心に二心・疑惑のないことをいう。

三、義相

 宗祖において「信一念」について二義がある。出拠にあるように、信巻末の信一念釈に見られる「時剋の一念」と、同じく聞信一念釈の「信相の一念」である。

 宗祖が成就文の一念を信の一念と見られたのは、一つには成就文は諸仏所讃の名号を領受する機受を的示する経説だからであり、二つには異訳の『如来会』の該当文が「一念の浄信」と訳されていたからである。信一念釈によれば成就文の一念は「時剋の一念」であり、名号を聞いて信楽が開発する時剋の極促を示すものであった。それはまた浄土往生の真因が円満する信の一念であると説かれている。これを本願成就文に即して理解すると、「乃至一念」は上の「聞其名号信心歓喜」を受け、下の「即得往生住不退転」につなぐものであるから、信一念は信心開発の時と得益の同時性を顕すものとしなければならない。『一念多念文意』には「即得往生といふは、即はすなはちといふ。ときをへず、日をもへだてぬなり。(中略)真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざらなり」とあり、『唯信鈔文意』には「即得往生は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ」とある文の「即」の内容をも含むものとなるのである。行巻六字釈に「即の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり」といわれたものがそれである。この信益同時ということも信一念の所顕の法義の一つである。

 宗祖が本願成就文の一念を「信楽開発の時剋の極促」と釈されるのは、名号聞信によって起こる信心獲得について、時間の上から釈されたものであって、受法の初際であり、それ以上ちぢめることのできない時間の極限を意味する。従来この極促の促について、延促対の促か、奢促対の促かという論議がなされているが、それぞれに文証もあって、両者は必ずしも矛盾するものではない。「乃至一念」とは生涯相続する信心が最初に開発するということがらを表すのであるから、一念を名号領受の最初の時であるとする延促対の促と理解することは妥当である。しかし、その信心開発には時間の経過を要しないという意味において、奢促の促、すなわちきわめて迷い時間と理解してもさしつかえないであろう。『略典』に「往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり」といわれたものは延促対の促であり、西本願寺本の左訓に「トシ」といわれたのは奢促対の促の意味であったといえよう。

 そもそも信心の開発は如来回向のはたらきによるのであるから、そこに衆生の三業による造作の介入する余地はない。人間がつくりあげる自力の信心ならば、信の成立に必ず時の経過を必要とする。しかし、如来回向の名号を領受するのには時間の経過は要しない。現前の仏勅をはからいなく聞き受けている無疑信順の願力回向の信は、時間の経過を要せずに成就するということを「時剋の極促」あるいは「ときのきはまり」と表現されたのである。つまり、「時剋の極促」とか 「ときのきはまり」は、時間を超えた本願の法が、私という時間の領域にとどき、私のうえにはじめて信心が開発したという、そのできごとを表現するものなのである。

 ところで、『本典』証券に「往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり」とあり、また『略典』には「往相の心行を獲ればすなはち大乗正定の聚に住す」と ある。宗祖の語例によれば、心行の行は称名念仏をさすのがふつうであるから、入正定聚の利益を得る即の時、すなわち 信一念の時に称名念仏が存在するのかという疑問が生ずる。もしそうだとすれば、信一念に衆生の口業による造作が介入することになり、また信心に称名念仏を加えて往生の因となるがそうではない。この場合の心行とは信巻本の「真実の信心はかならず名号を具す」といわれたものと同意である。すなわち信は相続においてかならず称名念仏となってあらわれる信心であることを示されたものと理解すべきである。

 出拠に「信相の一念」の出典としてあげた「一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり」といわれたものは、一念を、無二心すなわち疑蓋無雑の信相をあらわした語と見られた釈である。これはあくまでも信心の純一性を示すものであって、時間の上での論議ではない。

 なお、信一念の時剋釈と信相釈の中では、時剋釈が経の当分の義であり、信相釈は宗義をあらわす義釈と見るべきである。それゆえ、『一念多念文意』には時剋釈のみをあげられたのである。

以 上

信疑決判

平成13年

〔題意〕

『選択集』の信疑決判の釈に基づき、信疑によって、迷悟が分れることを明らかにする。

〔出拠〕

 『選択集』三心章の私釈に

「次に深心とは、謂はく深信の心なり。当に知るべし。生死の家には疑を以て所止となし、涅槃の城には、信を以て能入と為す。故に今二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。」(真聖全一、九六七頁)

とあり、また宗祖は『尊号真像銘文』(真聖全二、五七二頁・五九六頁)には、この文の解説がなされ、「正信偈」(同前、四六頁)、『高僧和讃』源空讃(同前、五一四頁)にはこの文の意が示されている。

〔釈名〕

 「信」とは、第十八願の無疑の信心のことである。これは明日の天気を確信する未現前の不疑に対して、現前の仏勅に直接する無疑である。
「疑」とは、仏勅を拒絶する全てをいう。
「決判」とは、信疑のけじめを明らかにすることである。

〔義相〕

①『選択集』信疑決判の意。

 『選択集』三心章の三心の中心である深心釈下において、迷悟を信疑によって決判し、以て念仏往生の奥義を開顕し、唯信正因の本意を示したもの。

②『大経』信疑得失の意。

『大経』下巻の胎化段(真聖全一、四三頁以下)において、仏智を疑惑して、「修諸功徳」、あるいは「修習善本」して願生する「不了仏智」の者は往生しても胎生して、大利は得られず、「明信仏智」の者のみが化生して大利を得ると述べている。

③信疑決判と信疑得失の相異。

 どちらも第十八願の信心を勧める点では同じであるが、信疑決判は悪機について因の上で語り、得失は、修善の機について、果の上で語っている。

④生死流転の因は何か。

 本願疑惑が生死流転の因ではない。悪業・煩悩が因である。さらに信疑決判なることは、本願成就を前提としていることにある。恰も十人が十人この薬を飲めば助かるという病でも、自らの無知のため拒絶すると死亡するが如くである。

以 上

信心正因

平成11年

〔題意〕

 浄土真宗の法義において、如来回向の信心が往生成仏の正因である理由と正因といわれる徳義を明らかにし、称名は信相続の行であって正因ではないことを明らかにする。

〔出拠〕

 『正像末和讃』(真聖全二・五二ー頁)
  不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり
  信心の正因うることは  かたきがなかになをかたし
 「信文類」  (真聖全二・五九頁)
  涅槃真因唯以テス信心
 「信文類」  (真聖全二・六二頁)
  斯心者即如来大悲心ナルガ報土正定之因
 その他「正信偈」(真聖全二・四五頁)、『口伝鈔』(真聖全三・二八頁)、『御文章』(真聖全三・五〇七頁)などにある。

〔釈名〕

 信心とは、総じて本願の三心、別しては三心即一の信楽を指す。  「信文類」の字訓釈や信楽釈下に信楽の名義を釈して「疑蓋无キガ間雑信楽」といわれ、信楽を無疑心の義とされている。
 また、『唯信鈔文意』には「信はうたがひなきこころなり。(中略)本願他力をたのみて自力をはなれたるこれを唯信といふ」といわれ、無疑の信心を「たのむ」と和訓されている。また、「信文類」所引の二河讐には「今信シテ二尊之意」とあるから、信を信順・随順の義とみられていたことがわかる。さらに「信文類」の字訓釈の信楽の釈に「真也、実也」とあるように、真実の義ともされている。これをうけて『最要鈔』には「この信心をば、まことのこゝろとよむうへは、凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき信心といはるゝなり」といわれ、信心を「まことのこゝろ」とされている。
 要するに信心とは、その信相をいえば、疑いなく本願に随順する心であり、自力心をはなれて「本願他力をたのむ」心である。またその信体からいえば如来回向の信心であるから、仏心であり、「真実、まことのこゝろ」といわれるのである。その如来の回向の構造は名号による回向であり、信体はまた名号である。

 つぎに正因とは、正とは正当(しょうとう)の義である。当は契当の義で「かなう」ことである。また正定の義とみれば決定の意味になる。
 因とは、因種の義である。よって正因とは菩提、涅槃にかなった因種であり、また必ず往生成仏の当果も決定する「たね」という意味である。
 『尊号真像銘文』に「正定の因といふは、かならず无上涅槃のさとりをひらくたねとまふす也」といわれるとおりである。  よって、信心が正しく往生成仏の因種であることを信心正因という。

〔義相〕

①第十八願文及び成就文によって信心正因の義意をうかがう。
  往生の因を誓われた第十八願には「至心信楽欲生我国、乃至十念」と、三心即一の信心と乃至十念の称名が誓われている。しかし、称名には「乃至」の語がつけられている。乃至とは従少向多・従多向少の二義をもつ一多不定をあらわし、称名の数を限定しないことによって能称無功の他力の称名であることをあらわし、また信心から流出する信相続の易行を誓われたものである。しかも従多向少の極限は、信の一念にまでつづまる。成就文に信の一念として乃至十念を説かれたのはその道理を示されたものであり、『尊号真像銘文』に「下至といふは、十声にあまれるものも、聞名のものおも往生にもらさずきらはぬことをあらはしめすと也」といわれるのはその意である。
 乃至十念の称名が、信の一念にまでつづまるとすれば、往生の正因は、一声の称名をもまたず、信の一念に定まることになる。
 『御消息』に「信心の定まるとき往生また定まるなり」といわれているのは、その義である。
 このようにうかがうと、第十八願は正因法としての信心と 正因決定後の信相続の行とが誓われていることになる。これを信心正因・称名報恩の法義というのである。
 この義を明らかにされたのが第十八願成就文であり、名号を聞信する極促の一念に、即得往生住不退転の益がめぐまれると、信益同時の義が示され、唯信独達の義趣が明らかに述成されている。

②なぜ信心が正因となるかという理由について
 弥陀の名号は衆生を往生成仏せしめる悲智万行の徳を円具した業因、すなわち正定業であって、これを信受したとき名号の全徳が衆生の上に具するからである。
 このように本願成就の名号を正しく領受して衆生の上で往生成仏の因願が成ずるのは、聞信一念のときであるから、衆生の上で正因決定を顕わすときは信心で語られねばならない。機法の分斉を混乱してはならない。
 また如実の称名は、名号全顕の行であるから、その体徳か らいえば正定業であるが、行者の意許(こころもち)からいえば、報恩行となるのである。

③信心の徳義について正因の義意をうかがう。
 「信文類」の信楽釈に信楽について「斯心者即如来大悲心ナルガ報土正定之因。」といわれているように、如来回向の信心は、如来の大智を全うじた大悲心であるから、報土の正定の因となるのである。大慈悲が仏道の正因であることは『論註』の性功徳釈をうけて「信文類」末の信心の転釈の結文に明示されたところである。
 また「信文類」をはじめ、諸処に信心は願作仏心・度衆生心のはたらきをもつ横超の大菩提心であり、また仏性でもあるから成仏の因種となることを釈顕されている。

④信心正因の所顕
 本願の名号を疑いなく信受した信心は、仏心であり、大菩提心であって仏因としての徳をもっている。その故に聞信の一念に仏因円満して正定案に入り、弥勒と同じ位にあらしめられ、往生即成仏の妙果をえしめられるという大信心の徳義が明らかになる。また信心が正因である故に、称名は正因ではなく信後の報恩行である。また化土の業因であるところの要真二門の自力の行信に簡んで、真実報土の真因は信心のほかにないという弘願真宗の法義が明らかになるのである。

以 上

選択本願

【題意】

 『末灯紗』に、「選択本願は浄土真宗なり」といわれる選択本願の意義を明らかにする。

【出拠】

 法然聖人の主著は選択本願念仏集と題され、同書の「本願章」(真聖全一、九四一頁)には、

選択者即是取捨義也。謂於二百一十億諸仏浄土中、捨人天之悪取人天之善、捨国土之醜取国土之好。
選択とはすなはちこれ取捨の義なり。いはく二百一十億の諸仏の浄土のなかにおいて、人天の悪を捨て人天の善を取り、国土の醜を捨て国土の好を取るなり。

と釈され、「慇懃付属章」(同前、九八八頁)にも選択本願の語が出る(原文省略)。また、『本典』「信巻」(真聖全二、四八)には、

斯心即是出於念仏往生之願斯大願名選択本願
この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく

と示されている。

【釈名】

 選択の語は、『大阿弥陀経』に出て、正依『大経』には出ないが、二百一十億の諸仏の刹土を覩見した後、法蔵菩薩が、

摂取二百一十億諸仏妙土清浄之行。
二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す。(真聖全一、七頁)

と説かれるのを踏まえて、法然聖人は選択と摂取とを、言は異なるが意は同じであるとされる。選択の語には選取・選捨の両義があるのに対し、摂取の語は選取の義のみを示すとも考えられるが、選取とはそのまま余他の選捨であり、選択と摂取とは意は同じである。
 本願の本には因本・根本の両義がある。因本とは因即本の義で、本願とは因願、すなわち因位の菩薩の誓願の意である。因願には、全ての菩薩が共通して発す総願すなわち度断智証の四弘誓願と、おのおのの菩薩が個別に発す別願とがあり、後者には薬師の十二大願等があるが、ここでは弥陀の四十八願のことである。
 根本の願とは、衆生救済を根本とする法蔵菩薩の願意をそのままあらわす第十八願のことである。すなわち、選択本願とは、国上人天の曼善悪が取捨された四十八願全体との意と、往生行が取捨された第十八願との意と、両様の意がある。
 題意に取り上げられている『末灯鈔』第一通(真聖全二、六五七頁)に述べられる選択本願とは、根本の願たる第十八願の意である。なぜならば、宗祖の用語法からすれば、本願乃至選択本願の語は、原則として第十八願を指し、また『末灯鈔』の意は、浄土宗の中に真仮を分け、その真を選択本願というのであるから、第十九願・第二十願の仮に対して第十八願を真と示したと理解すべきである。

【義相】

① 法然聖人の『選択集』「本願章」(真聖全一、九四二頁・九四三頁)には、四十八願中の若干の順について、選取選捨が示されているが、第十八願に関して、

即今選捨前布施持戒乃至孝養父母等諸行、選取専称仏号。故云選択。
  すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。

と、往生行について、選び取られたものは称名念仏、選び捨てられたものは諸行と示されている。取捨は念仏・諸行と示されているが、念仏とは他力の念仏であり、真門自力念仏は選び捨てられた諸行に属する。
 選択は二百一十億の諸仏浄土の覩見よりなされたが、諸仏浄土の往生行の中には他力念仏はなく、諸仏浄土の往生行の中から選取されたのは、称名念仏という相についてである。機功をからない他力念仏は、諸仏浄土の往生行の中から選取されたものではなく、性を全うじて修起した法蔵心中の選択として、無選択というべきであり、選択はついには無選択に結帰する。

② 法蔵発願のおこりは、仏願の生起すなわち無有出縁の機の存在である。よって選択の理由も、清浄・真実無き衆生救済のためであることをまず踏まえなくてはならない。
 清浄・真実無き衆生とは、自力をもっての出離生死が不可能な衆生であり、このような衆生を得脱せしめるために、機功を必要とする自力諸行は往生行として選び捨てられ、機功を必要としない他力念仏が選び取られたのである。
 なお、法然聖人は、機功の要・不要の詳細を勝劣・難易で示されている。

③ 『選択巣』本願章(同前、九四三頁~九四五頁)には、称名念仏一行道取の理由として、諸行の劣・難に対して念仏の勝・易を示される。勝劣の比較とは、おのおの一隅を守るのみの諸行を劣とし、万徳の所帰たる念仏を勝とするものである。しかし、諸行の積累が念仏と価値を同ずるのではなく、果徳の全顕である念仏は、因人の行にすぎない諸行を本質的に超過している。
 勝徳と易徳との関係は、勝徳は往因の円成をあらわし、易徳は機功の不要をあらわしている。すなわち、衆生にとって、機功を必要とする諸行は難であり、機功を要しない念仏こそが最も易である。機功を要しないとは、法体名号において往因が円成されているからであり、法体名号全顕の念仏は、因行に超過する最も勝れたものであるということができるのである。

以 上

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