大行名体

平成11年度

〔題意〕

 宗祖は大行を指定して「大行者、則稱スルナリ無碍光如来」と釈されている。
 そこで大行の名義を明らかにし、如来回向の大行の物体を確定して、『教行証文類』の綱格を定める。

〔出拠〕

 「行文類」(真聖全二・五頁)

諸佛稱名之願 浄土真実之行選択本願之行
大行者、則稱スルナリ無碍光如来ミナヲ。斯、即是摂善法、具セリ徳本。極速円満。真如一実功徳寶海ナリ。故名大行

『三経往生文類』 (真聖全二・五五一頁)

 この如来の往相廻向につきて、真実の行業あり。すなわち諸佛稱名の悲願にあらわれたり。稱名の悲願は、『大无量寿経』にのたまはく、「設我得仏、十方世界无量諸佛、不悉咨嗟稱我名者不正覚。」

 その他、『浄土文類聚鈔』『如来二種廻向文』『六要鈔』『教行信証大意』『御文章』などにある。

〔釈名〕

大行の大には、大・多・勝の三義があり、広大・多量・最勝の意味で行の徳義を示して「摂善法、具セリ徳本」は相から多の義を示し、「極速円満」は用から勝の義を示し、「真如一実功徳寶海ナリ」は体から大の義を示して三義が具足しているから大行と名づけられるのである。
 大行の行とは古来「造作進趣」の義とされ、「智目行足到清涼池」と比喩されるようにある動作をくりかえして目的地に進むことをいう。
 宗祖は「真実の行業あり」とか「往相正業」と述べられている。
 つまり、大行とは真如にかない、無量の徳をもち、衆生をすみやかに涅槃に到らしめるすぐれた行業(おこない)のことである。それゆえ、「真実の行」、「最勝真妙の正業」といわれるのである。

〔義相〕

(大行の体)
 大行の体は名号である。「行文類」の標挙に諸仏称名の願、すなわち第十七願があげられている。これは諸仏に称揚讃嘆されつつある名号をもって大行とされる意である。諸仏称名の願というのは、「咨嗟称我名」の文によって、能讃所讃を共にあらわす願名であって、「称」は称揚・称讃の意で成就文には「皆共シ下フ無量壽佛威神功徳、不可思議ナルヲ」と述成されているところである。
 ところで諸仏が弥陀の名号を称揚讃嘆されるという能讃の辺よりいえば「教」の願とみられる。『御消息』に「諸佛稱名の願と申し、諸佛咨嗟の願と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ」などといわれているのはその意である。
 いま、「行文類」の標挙に浄土真実の行と細註されるのは、諸仏所讃の名号をもって大行とされることをあらわすのである。また選択本願の行とは乃至十念の称名である。これは第十七願の諸仏称讃の名号が第十八願の行者の上に称名となってあらわれている旨を示されるのである。
 次に出体釈には「則稱スルナリ無碍光如来ミナヲ」と称名で示されている。これは『論註』(下巻)の讃嘆門の釈をうけられたもので、『論註』では光明・名号の法体に破闇満願の力用があるとし、その法体に相応しない称名には破満の徳は語られず法体と相応する一心具足の称名に破満の徳があることを示されている。いま、その讃嘆門の釈をうけて称名で出体されるのである。
 しかし破満の力用は法体にあるのであるから、称えることによって大行と名がつくではない。このことは経文引用のあとの釈に称名破満の義を示されて「満てたまふ」と約仏の訓点を施されていることによっても明らかである。
 また偈前の釈には第十七願を「真実行の願」とされ、第十八願を「真実信の願」とされていることによっても大行の体は諸仏称讃の名号であることが明らかである。

(名号と称名)
 名号は固然たるものではなく、廻向法としてつねに法界に活動して往生せしめ還相せしめつつあるのである。
  『正像末和讃』に

  南無阿彌陀佛の廻向の 恩徳広大不思議にて
  往相廻向の利益には  還相廻向に廻入せり

とうたわれている。この名号は諸仏の称揚讃嘆によって衆生に聞信せられ、相続の称名としてあらわれる。したがって名号を領受する相は信心であり、称名である。宗祖は名号が業因である義を示され、信心正因の義を明らかにされ、乃至十念の称名は往因決定後の相続行とされている。乃至十念の称名はその体名号の全現であるから、称即名である。また名号はつねにはたらいて如実行者の上に称名となりつつあるものであるから、名即称ともいえるのである。
 このように第十七願の諸仏所讃の名号と第十八願の乃至十念の称名とは相即不二であるが、衆生の口称をまってはじめて大行といわれるのではなく、名号が直ちに大行であるとされなければならない。

以 上

大行名体

平成21年度

〔題意〕

親鸞聖人が釈顕された大行の名義と物体をうかがい真実大行の義を明らかにする。

〔出拠〕

本典「行文類」・『浄土文類聚鈔』等。文は省略する。

〔釈名〕

①大行の「大」には大・多・勝の三義がある。

 「行文類」に大行とされる所以を「摂諸善法、具諸徳本」と明かされたのは、無量の徳をあらわしており多の義にあたり、「極速円満」は勝れた用徳をあらわし勝の義にあたり、「真如一実功徳宝海」は、広大無辺な真如にかなう性徳をあらわして大の義にあたる。

 また、「行」とは、仏果に至るための行業をいう。『法界次第初門』には「造作の心よく果に趣くを名づけて行と為す」とあり、『法華玄義』には「それ行は進趣に名づく」とあり、「行」は造作進趣をその義とする。

〔義相〕

①大行の物体

大行の体は名号であり、名号は、衆生を運載し、往生成仏せしめる。この衆生運載を造作の義とし、往生成仏せしめる力用を進趣の義とする。

 「行文類」の標挙に「諸仏称名之願」と第十七願をかかげてあるのは、十方世界の無量の諸仏によって讃嘆されている名号をもって大行とされる意である。第十七願は諸仏が弥陀の名号を称揚讃嘆されるという能讃の側に就けば、教が所誓であるが、諸仏によって讃嘆される「我名」すなわち所讃に就いて名号を所誓とし、行の願として出されているのである。

 「行文類」の標挙に「諸仏称名之願」と第十七願をかかげてあるのは、十方世界の無量の諸仏によって讃嘆されている名号をもって大行とされる意である。第十七願は諸仏が弥陀の名号を称揚讃嘆されるという能讃の側に就けば、教が所誓であるが、諸仏によって讃嘆される「我名」すなわち所讃に就いて名号を所誓とし、行の願として出されているのである。  細註に「浄土真実之行」とあるのは、「化身土文類」に説かれる浄土方便の行、すなわち自力諸行・自力念仏との区別を示し、他力の称名をあらわしているとうかがう。「選択本願之行」の選択本願とは、第十八願の別目であるから、「選択本願之行」とは「乃至十念」の称名である。標願は法体の名号をあらわし、細註は衆生の能行をあらわしていることになり、法体の名号は固然たるものではなく、常に法界に流行して衆生の「称名」となって活動していることを示している。続く出体釈に「大行者則称無碍光如来名」とあるのも同意である。

 この出体釈は、『論註』下巻の讃嘆門釈を承けているので、如実の称名を意味する。『高僧和讃』には、「如実修行相応は 信心ひとつにさだめたり」と示され、また、「称」を「はかり」と釈する『一念多念文意』には、「疑ふこころ一念もなければ」と続けられるので、「称無碍光如来名」は、信後の称名、すなわち他力信心から流出した他力の称名である。出体釈は、他力の称名において、名号の活動が語られているのである。

 続く称名破満釈や行一念釈等においても、称名で大行が語られているが、これらも法体の名号が衆生の上において、如実の称名となって活動していることを明らかにしているのである。

②本典における「行文類」の地位

 本典における「行文類」の地位は、上「教文類」を承け、下「信文類」を導く。「教文類」には真実教たる『大経』の体を名号と示され、「信文類」の信は「聞其名号」の信であり、また名号を体とする信である。

 すなわち、名号とは諸仏の所讃であり、衆生の所信であるが、釈尊の言教となって活動している名号が、そのまま衆生の信心の体となるのである。

 なお、「行文類」の地位について、本典が「顕浄土真実教行証文類」と三法で立題されていることから、教・行・証の三法組織の中の「行文類」と位置づける義がある。これは、行中摂信した行をもって往因を語り、行とは真実信心を具した弘願の称名として、外聖道諸行に対し行行相対して念仏往生の法義を明らかにするのが「行文類」の所顕であるとする義である。

 しかしながら、『本典』の構成自体は四法組織であり、「行文類」には、また「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」といわれる等、行信が並べ挙げられている文も多く、行中摂信の説相とはうかがいがたい。よって、この義はとらない。

③第十七願の我名と第十八願の乃至十念の関係

 第十七願に誓われた「我名」、すなわち法体名号は固然としたものではなく、常に回向法として法界に流行し、衆生を往生成仏せしめるべくはたらき続けている。その名号を衆生が領受した相が第十八願の「至心信楽欲生」の信心であり、「乃至十念」の称名である。この名号を領受した信の一念に往因円満するから、それを信心正因という。

 名号が「乃至十念」と衆生の口業にあらわれるのは第二念後のことであり、正因決定後の相続行としてである。

 信後の行である「乃至十念」の称名には、二つの意味がある。一は称名の体徳よりいえば、名号全顕の称名であるから、称名即名号であって正定業である。二は称える者の意許からいえば報恩行である。第十七願に誓われた名号と第十八願の「乃至十念」の称名とは相即不二である。

④行信の関係

 本典では大行、大信と行信次第で法義が明かされている。もし大信に先行する大行が称名であるとするならば、その称名は未信位の称名であり不如実の行ということになる。信心に先行する行としては、本願成就文に「聞其名号信心歓喜」とあるように、所聞所信の第十七順位の名号でなければならない。それを「本願名号正定業」といわれたのである。たとえ称名で所信の法が語られたとしても、常に称即名と名号について立信するのである。能称について立信するならば、明らかに自力に堕し能称正因となる。

 「行文類」では信心、称名の全てが名号大行の活動相であり、衆生の往生成仏は名号の独用であることがあらわされている。「信文類」ではこの名号大行が衆生の上ではたらいて大信となり、衆生の往生成仏の正因となるという機受の極要が顕されている。よって行と信とは法と機との関係にあるというべきである。

追善回向

平成11年

〔題意〕

 諸宗の中に、追善廻向が行われ、また浄土真宗の聖教の中にもそのように受け取られ易いもの、あるいはこれを否定されたものもあるところから、浄土真宗では追善回向を用いない理由を究明し、年忌法要等の本来の意味を明らかにする。

〔出拠〕

『歎異抄』(真聖全二・七七六頁)

 親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念佛まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり、いづれもいづれもこの順次生に佛になりてたすけさふらうべきなり。わがちからにてはげむ善にてもさふらはゞこそ、念佛を廻向して父母をもたすけさふらはめ。たゞ自力をすてゝ、いそぎさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなりと云云。

『行文類』 (真聖全二・三三頁)

 明。是非凡聖自力之行、故不回向之行也。大小聖人、重軽悪人、皆ジクヒトシクシテシテ選択大寶海念佛成佛

『正像末和讃』(真聖全二・五二〇頁)

  眞實信心の稱名は   弥陀廻向の法なれば    不廻向となづけてぞ  自力の稱念きらはるゝ

『帖外御文章』(真聖全五・三八〇頁)

 さればこれにつけても女人の身は、今、このあへなさ、あはれさをまことに善知識とおもひなして、不信心の人にはすみやかに無上菩提の信心をとりて、一佛浄土の来縁をむすばんとおもはん人には、今世・後世の往生極楽の得分ともなりはんべるものなり。

『蓮如上人御一代記聞書』(真聖全三・五七四頁)

 他宗には親のため、またなにのためなんどとて念佛をつかふなり。聖人の御一流には弥陀をたのむが念佛なり。そのうへの稱名は、何ともあれ、佛恩になるものなりと仰せられ候ふ云々。

 その他、『拾遺蓮如上人御一代記聞書』などがある。

〔釈名〕

 「追善」とは、「追加善根」のこと。先亡のために財徳とか行徳を善根として、追修するという意味。
 「回向」とは、自己の修めた善根功徳を回転して、他の衆生に趣向することをいい、読経供養等の仏事を営むことをいう。

〔義相〕

 仏教一般で行われている追善回向については、『地蔵本願経』(大正蔵十三・七八四中)には「衆生在生中に善因を修せず多く罪を造れば、命終の後眷族が福利を作り、一切聖事七分の中、一を獲、六分の功徳は生者の自利となる」とか、『灌頂経』には「命終の人、中陰の中に在りて身、小児のごとし。罪福未だ定まらず。応に為に修福して、亡者の神をして十方無量の刹土に生ぜしめんと願ずれば、此の功徳を承けて必ず往生を得」と、追善が可能であるとして、殊勝の功徳あることが説かれている。しかし本来仏教は自因自果であり、他作自受は認めないのである。しかも三輪清浄でなければならない。

 『梵網経疏』(義寂)(大正蔵四〇・六七七上)には、「因果の道理より自作他受はなし。しかるに、彼此相縁互資なきに非ず」といって、自他円融の妙理に達すれば、追善の道理を生じ、これが無信の亡者には増上の縁となって、七分中の一分を獲、有信の者は全分を獲るという。

 ところが宗祖は、自身を内観され罪悪深重と告白され、自己の修める善もなく、それによってえられる功徳もなく、まして「小慈小悲もなき身」であると述懐されている。従って、自分が他人を直接救うということは不可能なのである。それが「父母孝養のためとて一返にても念仏もうしたることいまだ候はず」という人が人を救うことの限界を見定められた深い悲しみからの告白なのである。

 それでは、もはや先立った人への追慕とか、利他のはたらきは絶望なのであろうか。そうではない。阿弥陀如来は、このようなわれら衆生を一子のごとく憐念されて衆生の往生と仏の正覚を一体に成じてくだされたのである。

 そして、われらに浄土に往き生まれることも、浄土から還相して有縁を救うはたらきをすることもすべて回向してくだされるのである。その意味で、自分が他人を直接救うことなど思いもよらないことで自分が「救う」のではなく、先立った人もこの私も、阿弥陀如来に「救われる」身であることにめざめることが肝要なのである。

 念仏はわれら衆生を、すなわち私も先立った人も救おうとして成就してめぐまれた大悲回向の行なのである。したがって衆生からは不回向の行なのである。念仏は私の方から如来や先立った人にふりむけるものでは決してないのである。

 宗祖は『尊号真像銘文』に「即発願回向といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもうになるなり。また一切衆生にこの功徳をあたふるになるなり」と示され、また『正像末和讃』に「他力の信をえんひとは 佛恩報ぜんためにとて 如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし」とうたわれて、「教人信」もまた報恩のほかはないとされている。

 浄土真宗の聖教の中には追善回向とも受け取られやすいものもあるが、宗祖の立場は自身の罪悪性の深信にあり、そこからは追善回向を強く誠められている。と、同時に「無慚無愧のこの身にてまことのこゝろはなけれども、弥陀の回向の御名なれば功徳は十方にみちたまふ」とうたわれ、如来の回向に帰順することによって有情を利益することができることを告げられているのである。

 浄土真宗においての法要は先立った人への追慕を縁として死の痛みを通して、死の前には無力である自身と知らされ、仏法を聞く機縁とさせていただくことである。そのとき、先立った人は私に人生の深さをまのあたりに教えて下さった人として尊い姿を示されるのである。その意味で、この私が仏法に遇い、生死をつつんでくだされる阿弥陀如来の誓願に信順する身にさせていただくことが、先立った人を無駄にしないご縁なのである。それこそ上讃仏徳・下化衆生の報恩行として法事といわれ、仏事といわれる法要の意義なのである。

以 上

読経意趣

平成24年

〔題意〕

 浄土真宗の法義において、往因は、他力回向の信心であり、その他の一切の衆生の造作は関与しない。したがって、読経は、往生・成仏のための追善・供養の行業ではなく、信後相続の行業である本願所誓の称名に随伴するものであり、仏徳讃嘆と報恩の意から行うものであることを明らかにする。

〔出拠〕

『仏説無量寿経(大経)』の流通分には、「たとひ大火の三千大千世界に充満せるあらんも、かならずまさにこれを過ぎてこの経法を聞 き、歓喜信楽し、受持読誦して、説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん、多く菩薩ありて、この経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありて、この経を聞かんものは、無上道において、つひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し持誦し説行すべし」(『真聖全』一・四六)とあり、『如来会』には、「経巻を読誦し受持し書写して、乃至、須臾の頃においても他のために開示し、勧めて聴聞して、憂悩を生ぜざらしむべし」(『真聖全』一・二一二)とある。この他、『仏説観無量寿経(観経)』の散善顕行縁には、「三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す」(『真聖全』一・五一)とある。

〔釈名〕

 「読経意趣」の「読経」は、経釈には「読誦」とあり、経典の文言の見・不見に拘わらず、音読するという意である。「経」は、弘願真実 の法をあらわす仏説であるが、広義においては本願の意を明らかにする疏釈等も合む。「意趣」は、心持ち・心延えという意である。したがって、「読経意趣」とは、読誦における念仏者の意許という意である。

〔義相〕

 仏教の通義において、読経とは、『観経』の散善顕行縁に、散善三福の行福として読経を挙げるように、三世諸仏の浄業であり、それは、 上求菩提・下化衆生であって、証果を得るための行業である。また、追善供養とは、己の善根を他に回向することであるが、それは、自他円融の妙理に達することにおいて、はじめて追善の道理を生じ、可能となるものである。
 宗祖は、『恵信尼消息』等から窺えるように、追善回向のための読誦経典を廃して、名号を勧められる。しかしながら、阿弥陀仏の本願力回向によって、往生・成仏せしめられる念仏者において、読経は相続行であり、名号を称する略讃を開いた広讃の意であると窺う。
 これを経釈から窺うと、『大経』には、「この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし」とあり、『如来会』には、「経巻を読誦し受持し書写して、乃至、須臾の頃においても他のために開示し、勧めて聴聞して、憂悩を生ぜざらしむべし」とあって、自行化他の意が示されているが、これらは、信後相続の行業であると窺う。
 『往生論註』の讃嘆門釈では、略讃の称名を中心とするが、「讃とは讃揚なり。嘆とは歌嘆なり」(『真聖全』一・三一四)とあって、阿弥陀仏の徳を歌い讃えるという広讃の意も存する。
 また、『往生礼讃』前序「口業讃歎門」の釈には、略讃の称名は、讃歎門から外して深心釈における所信の行とし、口業讃歎門は、三種荘厳に対する広讃として、安心の三心にもとづく起行相続行という位置づけである。
 さらに、「散善義」の就行立信釈における第四の称名は、行体としては、本願所誓の正定業であって、他の所聞となって任運に弘通するものであるという意である。読誦を含む前三後一の助業も、安心を起行においてあらわしたものであるから、称名に随伴するものであると窺う。
 この他、『尊号真像銘文』には、「即嘆仏といふは、すなわち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになると也」(『真聖全』二・五八七・『聖典全書』二・六二四)とあり、称名には阿弥陀仏の徳を讃える広讃の意もあると示されている。
 したがって、読経とは、名号を称する略讃を開いた広讃であり、信後相続の行業である称名に随伴するものとして、仏徳讃嘆と報恩の意から行われるものである。それは、自信教人信の姿であり、また、弥陀の大悲を伝えて衆生を化するという仏化助成ともなるものである。

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