二十二願事
令和6年度
〔題意〕
『大経』の第二十二願は「必至補処の願」「一生補処の願」等と称されてきた。この二十二願を曇鸞大師が『往生論註』に引用された意趣を窺い、宗祖が『教行信証』「証文類」において二十二願を還相回向の願と名づけられた独自の釈意を明らかにする。
〔出拠〕
『大経』第二十二願、『同』成就文。
『往生論註』「不虚作住持功徳釈」の釈文、および「覈求其本釈」の三願的証の文。
『教行信証』「証文類」「還相釈」。
『三経往生文類』『如来二種回向文』など。
〔釈名〕
二十二願事とは、『大経』に説かれた法蔵菩薩の四十八願中の第二十二願所誓の願事を指す。その内容は、「必至補処の願」「一生補処の願」「還相回向の願」(『聖典全書』二・一三七)「大慈大悲の願」(『聖典全書』二・五八四上)等の願名から窺うことができる。
このなか「必至補処の願」「一生補処の願」は願文当分の願名で、安楽浄土へ来生した菩薩は、因人の究竟位である一生補処に至らしめると誓われたことにより名づけられたものである。これに対して「還相回向の願」「大慈大悲の願」は宗祖独自の願名で、「還相回向の願」とは阿弥陀仏が衆生に還相を回向されることを誓われたと見られたものであり、「大慈大悲の願」とは願文の「普賢の徳」の語から還相回向の内容として名づけられたものである。
ただし「必至補処の願」「還相回向の願」と二方向の願名があるといっても、第二十二願に二種の願事が誓われているとは言えない。
伝統的に「必至補処の願」と名づけたときは、一生補処の菩薩に至らしめることが願事であり、「除其本願」以下はあくまで除外例となるため一願事である。また宗祖が「還相回向の願」と名づけられたときは、「一生補処」は従果還因の菩薩の本国位相を意味し、「除其本願」以下はその他方摂化を意味して共に従果還因の相となり、第二十二願全体が一つの還相回向の願となるため、一願一願事の常格をまもることになる。
〔義相〕
一、『大経』二十二願の願意
『大経』の第二十二願は当分の訓点で読めば、
設我得仏、他方仏土 諸菩薩衆、来生我国、究竟必至 一生補処。
除其本願、自在所化、為衆生故、被弘誓鎧、積累徳本、度脱一切、
遊諸仏国、修菩薩行、供養十方 諸仏如来、開化恒沙 無量衆生、
使立無上 正真之道、超出常倫 諸地之行、現前修習 普賢之徳。
若不爾者、不取正覚。
たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸の菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らむ。その本願ありて、自在に化する所、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養したてまつり、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめ、常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習するを除く。もししからずは、正覚を取らじ。
(『聖典全書』一・二六)
となる。『梵本』の第二十一願、『如来会』の第二十二願も同意である。
その内容は、他方仏土の菩薩が安楽浄土に来生すれば一生補処に至らしめると誓われたものとなっている。ただ「除其本願」以下「普賢之徳」の文は除外例を示し、来生の菩薩が自らの本願によって他方国土にて利他教化をせんとするならば、「常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習する」と、来生の菩薩の利他の願意を重んじ、本国に限定せず究竟の利他行を行ぜしめると願ぜられたものと読める。
そのことは『大経』第二十二願、同じく成就文、『如来会』の第二十二願、同じく成就文、『梵本』等によって明らかである。
一、『論註』「不虚作住持功徳釈」の釈意、「三願的証」の引意
『論註』下巻の「不虚作住持功徳釈」より『浄土論』の、
すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩畢竟じて平等法身を証することを得て、浄心の菩薩と上地のもろもろの菩薩と畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆゑなり。
(『聖典全書』一・五一〇)
の文に対する釈を見ると、「畢竟等」を一往の義とし、「即等」を再往の義とされる意が窺える。その根拠として用いられたのが第二十二願であり、このときは「恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立せしめむ」(『聖典全書』一・五一二)までを除外例とされ、以下を「常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せむ」(『聖典全書』一・五一二)の意と読まれ、速やかに一生補処に至る根拠として、
この経を案じてかの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次といふは、これ釈迦如来の閻浮提における一の応化道なるのみ。
(『聖典全書』一・五一二)
と、「即等」は如来の不虚作住持功徳力たる本願力に依る故と見られたと窺える。
また『論註』下巻の「覈求其本釈」では、『大経』の第十八願、第十一願、第二十二願をもって速得菩提の証とされている。まず、第十八願力によって往生し、第十一願力によって彼の土において正定聚に住し、第二十二願力によって常倫諸地の行に超出し、普賢の徳たる一生補処に至らしめるとされている。このように曇鸞大師は第二十二願の「除其本願」より「無上正真之道」までを除外例とし、「超出常倫諸地」以下を、「即等」または「速得菩提」の文証と見られていたことが領解される。
一、宗祖の二十二願釈の特色
宗祖は「証文類」「還相釈」で、『論註』不虚作住持功徳釈中の第二十二願文に対して、
たとひわれ仏を得たらむに、他方仏土の諸の菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らむ。その本願の自在の所化、(中略)恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめむをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せむ。もししからずは、正覚を取らじ。
(『聖典全書』二・一三九)
と、訓点を施しておられる。
『論註』の釈文を承けられているが、往生即成仏義を立てられる宗祖は、「超出常倫諸地之行、現前修習普賢之徳」の文を『大経』当分とも『論註』の意趣とも異なって、「常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せむ」と読まれている。「行文類」「他力釈」の第二十二願も、その他の文もほぼ同意の訓点である。この訓点によって「究竟必至一生補処」の本国位相も「除其本願自在所化」以下の他方摂化も、共に従果還因の相と見られたことが窺える。
すなわち宗祖は、「本国位相」も「他方摂化」も極果を極めた者の従果還因の相であって、本国にあっては広門示現して一生補処の菩薩相を示して仏国土を荘厳し、他方国土においては仏、菩薩、天、人等のあらゆる姿を自在に現じ、いかなる機縁にも応じて無碍の教化を施すことをあらわす「普門示現」の徳が恵まれると見られた。そしてこれらを総じて、大慈大悲の至極をあらわす「普賢の徳を修習せむ」の願文より、第二十二願に「還相回向の願」「大慈大悲の願」と独自の願名を立てられたのである。
特に願文の「普賢の徳」の語を用いられた「讃阿弥陀仏偈和讃」(国宝本)には、
安楽無量の大菩薩は 一生補処にいたるなり
普賢の徳に帰してこそ 穢国にかならず化するなれ
(『聖典全書』二・三四三中)
の「普賢の徳」の御左訓に「われら衆生極楽にまいりなば大慈大悲をおこして十方に至りて衆生を利益するなり 仏の至極の慈悲を普賢と申すなり」と記されており、還相とは往生を遂げた者が恵まれる至極の慈悲を行ずることと領解されていたことが知られる。
二種法身
令和6年
【題意】
曇鸞大師は『浄土論』の「浄入願心章」の「広略相入」の義意を明らかにするために、『往生論註』に二種法身説を用いてその義を明らかにされた。
その二種法身の義意と関係を明らかにする。さらに宗祖は晩年の和語聖教において二種法身説を用いて独自の仏身論を展開されている。論・釈の義意と宗祖の発揮を明らかにする。
【出拠】
『往生論註』下巻「浄入願心章」の文。
略して一法句に入ることを説くがゆゑなり。
上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広となす。一法句に入るを略となす。なんがゆゑぞ広略相入を示現するとなれば、諸仏菩薩に二種の法身まします。一には法性法身、二には方便法身なり。法性法身に由りて方便法身を生ず。方便法身に由りて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同ずべからず。このゆゑに広略相入して、統ぶるに法の名をもつてす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他することあたはざればなり。
(『聖典全書』一・五一五~五一六)
その他に、
『教行信証』「証文類」「還相釈」引文。
『一念多念文意』「真実功徳」の釈。
『唯信鈔文意』「極楽無為涅槃界」の釈。
【釈名】
二種法身とは「法性法身」と「方便法身」の二身をいう。
法性法身の「法性」について、「法」の語にはさまざまな概念があるが、今はあらゆる事象、存在の意味とする。「性」は『論註』に「性はこれ本の義なり(中略)法性に随順して法本に乖かず」(『聖典全書』一・四五八)と釈され、すべての事象の本体、本性、本来のあり方を意味する語である。
「法身」の「身」は身体、集成の義で「真如法性」をあらわす語であるが、それは一切諸法の本体を人格的に表現した語である。したがって両者は「法性」即「法身」の関係である。
方便法身の「方便」には「近づく」という意味があり、「権仮方便」「仮行方便」などの用語例がある。いま「方便法身」というときは、「法性法身」が虚妄の衆生に近づき、巧みな手段をもって救済することをあらわす。
二種法身について『論註』には、
法性法身に由りて方便法身を生ず。方便法身に由りて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同ずべからず。このゆゑに広略相入して、統ぶるに法の名をもつてす。菩薩もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他することあたはざればなり。
(『聖典全書』一・五一六)
と釈されている。これは二種法身が相即、不一不異の関係にあることをあらわしている。「法性」と「方便」の名目の違いは、「法身」の様態の相違にある。「由生」とは法性法身を離れて方便法身はあり得ないことをいい、「由出」とは方便法身によって法性法身の真実があきらかになることをいう。そしてこの二身相即が体得されねば、二利成就を目ざす大乗菩薩道は成り立だないことをあらわしている。
【義相】
一、『論註』二種法身説の釈相と義意(「広略相入」との関わり)
『論註』下巻「浄入願心章」に、
已下はこれ解義のなかの第四重を名づけて浄入願心となす。浄入願心とは、また向に荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就とを観察することを説けり。この三種の成就は、願心をもつて荘厳せり、知るべし。
「知るべし」とは、この三種の荘厳成就は、本四十八願等の清浄願心の荘厳したまへるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。無因と他因の有にはあらざるを知るべしとなり。
略して一法句に入ることを説くがゆゑなり。
上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広となす。一法句に入るを略となす。
(『聖典全書』一・五一五~五一六)
と、『論』の文を釈して、三種荘厳成就は法蔵菩薩の清浄願心を因とした清浄の果報であると示している。続いて『論』の「略説入一法句」の文を釈して「広略相入」が示される。「三厳」は「広」すなわち「広俳」「広説]された事相であり、「一法句」は「略」すなわち「三厳」が「略摂」「摂入」する法性の理体である。「広略相入」とは、「三厳」の事と「一法句」の理とが相即することをいう。この相即の根拠となるのが、二種法身における由生由出の義である。これによって『大経』所説の「三厳」は、相即無相、無相即相たる「第一義諦」「妙境界相」(『聖典全書』一・五〇四)であることを明らかにされている。
「法性法身に由りて方便法身を生ず」とは、法性法身が衆生摂化の大悲として方便法身を生起することをあらわす。「方便法身に由りて法性法身を出す」とは、方便法身たる『大経』によって、法性法身の無量の徳が顕出されることをあらわす。すなわち虚妄の衆生の救済は、法性法身を依り処として方便法身の因果相が示されることによって成立するのである。
このように方便法身である三厳の相は、法性法身の具える無量の徳が顕現したものであるから、方便法身といっても法性法身の外にないという二身相即の意が明らかになる。
「浄入願心章」は『大経』所説の三厳について、広略相入、二身相即の道理をもって「第一義諦」「妙境界相」であるとあらわし、所観の境が広略相入であるから、能観者の智も広略相入する柔軟心を成じて二利成就することができることを示すものである。
一、宗祖の二種法身説の受容
宗祖は『教行信証』「証文類」の初めに往相の証果を「無上涅槃の極果」と指定され、それを転釈して、
かならず滅度に至るは(中略)真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化種々の身を示し現じたまふなり。
(『聖典全書』二・一三三)
と述べられている。この釈相からは、往相の証果を法性法身に、還相の悲用を方便法身に配当しているようにうかがえる。さらに「還相釈」にも引用されるが、二種法身説に特別な配慮はうかがいにくい。
宗祖が二種法身説を用いて本格的に阿弥陀仏の仏身および救済の論理を展開されるのは、晩年の『一念多念文意』『唯信鈔文意』等の和語聖教においてである。
『論註』が二種法身説を用いて浄土の広略相入の義を明かされたのに対して、宗祖は『大経』に説かれる法蔵菩薩の発願成道の因果を、一如たる法性法身が垂名示形して方便法身の名号となって衆生を済度する様相と領解されて、本願名号の救いが法性の顕現態であることを示されている。
一、宗祖の和語聖教における二種法身説の展開
宗祖は『唯信鈔文意』正嘉本で、「極楽無為涅槃界」の「涅槃」の語を転釈されて、「一切群生海」といわれる衆生に信心が成立してゆく様相を詳しく述べられた。この信心成立の道理を明らかにするために、二種法身説を用いて、
しかれば仏について二種の仏身まします、一には法性法身とまふす、二には方便法身とまふす。法性法身とまふすは、いろもなし(中略)この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふすその御すがたに、法蔵比丘となのりたまひて(中略)あらわれたまへる御かたちを、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。
(『聖典全書』二・七〇二下~七〇三下)
と、法性法身は方便法身の名号となっているとあらわされた。さらに、
この如来すなわち誓願の業因にむくひたまひて報身如来とまふすなり(中略)この報身より応・化等の無量無数の身をあらわして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに(中略)いろもましまさず、かたちもましまさず、すなわち法性法身におなじくして、無明のやみをはらひ悪業にさえられず、このゆえに無碍光とまふす也。無碍は有情の悪業煩悩にさえられずと也。しかれば、阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたち也としるべし。
(『聖典全書』二・七〇三下~七〇四下)
と、方便法身は因願酬報の報身仏であるとして、報身は無数の応身、化身となって十方世界における『大経』の説法となり、正しく尽十方無碍光如来の名号のとおり十方に無碍の智慧光を放って無明を破しつづけると述べられている。名号を聞受する衆生の信心成立の上に法性の具現を仰がれたと知られる。
宗祖晩年のいわゆる名号本尊もこのような意趣から発案されたと思われる。
念仏為本
平成18年
〔題意〕
法然上人は往生之業念仏為本と標示し、第十八願を念仏往生の願と示された。宗祖もその法義を継承された。ここに念仏往生の本義をうかがい、さらに、信心正因と矛盾せず、称名正因と異なる義を明らかにする。
〔出拠〕
『選択集』標宗の文
「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」、『往生要集』(『真聖全』一、八四七)「助念方法」総結要行の文、
『本典』「行文類」に、『選択集』標宗の文と総結三選の文を引いて、『選択集』全体を総括して念仏為本の法義を示される。
『銘文』広(『真聖全』二、五九五)同略(『同』ニ、五七一)に『選択集』標宗の文を釈して
「〈南無阿弥陀仏往生之業念仏為本〉といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり」と。『唯信鈔文意』(『同』二、六二五)には
「すでに称名の本願は選択の正因たること悲願にあらはれたり」等と。
その他、「念仏為本」に関する類文は多い。
〔釈名〕
「念仏」とは称念仏名である。一般に念仏といえば、観念仏体、憶念仏徳、実相念仏等、種々あるが、今は、弥陀の仏名を称念する口称である。
「為本」とは、「本」は根本、宗本の義である。余なしという意味で、往生の因は念仏を根本として余他をみない意である。異本に「念仏為先」とあるが、同義である。
〔義相〕
一、『選択集』と『往生要集』の念仏為本
「往生之業念仏為本」は、もと『往生要集』中末、第五「助念方法」総結要行の文である。『選択集』標宗の文はこの文に拠るが、『要集』と文は同じであっても、義は少しく異なる。『往生要集』の念仏は、一往、要門中の念仏とみられる。法然上人は『要集』を三例をもって見、結論として弘願他力念仏と同じとした。宗祖は『末灯鈔』に「恵心院の和尚は、『往生要集』には、本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、〈行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず〉と仰せられたり」とある。
さて、『選択集』の語は、まず「南無阿弥陀仏」と名号をかかげ、次に「往生之業念仏為本」の八字を挙げてある。六字の標挙は、第十八願、選択本願の念仏であり、称名正定業である。法然上人は念仏一行によって万人が往生をとげる浄土教を独立された。その根拠は善導大師の称名正定業義であり、選択本願の念仏と開顕されたのである。即ち「本願章」には一切の諸行を選捨し、念仏一行を選取されたのは凡夫悪人を救う如来大悲の選択にもとづくものであった。念仏一行こそ、如来随自意の行法と判じ、さらに勝劣難易の分別をして、念仏は勝易の二徳を具すると示された。更に称名正定業を明かし、善導大師の六字釈を引証し、他力による念仏義を開顕され、極悪最下の人のために極善最上の法たる念仏は、他力念仏義であることを顕された。それは三心具足の念仏であり、信疑決判して、信心をもって能入すと示された。念仏は名号を信受して称える他力の念仏である義を明確にされたのである。
二、念仏の物体について
念仏為本という念仏の物体は名号である。念仏とは三心より出でた他力の称名である。法然上人の念仏為本の念仏は、衆生の能称の功をみない、名号の徳用から称名正定業という、称即名の他力行である。
宗祖は、「行文類」に『択集』の標宗と総結三選の文を引用して、『選択集』の始終全体を総括して引用されている。法然上人の念仏往生義をそのまま継承して、第十八願名を「念仏往生之願」「選択本願」と出され、随処にその言を用いられている。ただ宗祖は法然上人の一願建立の立場に対して五願開示して機法の分斉を鮮明にされ、称名行を第十七願所誓の大行として法体名号の活動相と展開されている。
衆生の称名はその体名号であって、名号は名声と立誓なされた通り、称となる徳をもっている。それは名号に内蔵する讃嘆門功徳である。従って、衆生の能称のまま、仏の法体名号の活動相である。これは能称所称不二の故に宗祖は「念仏則是南無阿弥陀仏」と「行文類」に示されている。称名は名号を領受した信心より露現するものであって「真実信心必具名号」と釈されるものである。声でない名号はないのである。即ち他力の称名は信心より必然的に露現したものである。
三、称名正因と称名正定業
次に善導・法然二師は称名正定業を立てて、念仏往生の一義をもって勧化されたが、宗祖は、信心正因と示された。この称名正定業と信心正因の法義は、一見相違するようである。称名正定業は、称名の体、名号の立場から業因を定め、信心正因は往生成仏の因が決定するのは、信受機受であると顕すのである。この場合は、称名は信後相続の作業となるから、信心正因称名報恩の法門となる。したがって称名について行徳の側から正定業を成じ、機の用心からいえば報恩となる。元祖と宗祖の間に化風が異なるのであって、元祖は、外聖道門の諸行に対して行々相対し、浄土門の行体を確定されたのであるが、宗祖は、対内的に浄土門内に機受の極要を示して、信心正因の義を確立されるのである。両者は矛盾せず、当然両立する。宗祖にあっても、対外的に聖道諸行に比対するときは、念仏諸善比校対論と、念仏往生の法門をかかげられている。
更に称名正定業義が称名正因義にならないかとの疑問がある。
称名正因とは、第二十願真門自力念仏の立場であって、衆生の能称の功を積集して、己が功徳として、浄土へ回向願求する自力の念仏である。自力心を以て能称の功をつのり、己が善根と励んで往生の業因に擬する自力念仏が称名正因説である。これに対して称名正定業は、所称の名号の徳用から正決定の業因とする。所謂、称名即名号という他力念仏を顕すのであるから、混同してはならない。
『銘文』には「安養浄土の往生の正因は念仏を本とす」と仰せられているが、この文は『選択集』標宗の文を釈されたものであって、南無阿弥陀仏の標挙をかかげて法体名号にもとづく念仏一行を往生の因とされたものである。正因とあっても、衆生の能称の功徳を因とされたものでない。
また念仏往生の法目は、宗祖も用いられているが、元祖の念仏往生は第十八願の「乃至十念」をもって一願建立の立場から行々相対して浄土の行体を発揚されたものであるが、宗祖の場合は、同じ念仏往生の宗義であっても五願開示して法体と機受を分明にされ、念仏即ち衆生の称名を法体にまきあげて、第十七願所誓の我名を大行と示されたのである。
「行文類」には大行を出体して「称無礙光如来名」として衆生の称名となる名号即ち名声という義を大行として開顕されたのである。即ち能称所称不二の大行である。故に念仏往生といっても称即名に帰し法体名号の活動相を衆生の称名のところで顕されたものである。したがって念仏と云うときは、法体・信心・称名の三法相即の念仏である。
四、信心正因と念仏為本
以上のごとく、念仏為本の念仏は、他力行としての正定業であり、衆生の能称の功をみるものではない。また、称名正定業義も、能称の功をつのって往生の業因に擬する称名正因説ではなく、信心正因の法義と相違するものではない。よって念仏為本は決して信心正因と矛盾するものではなく、往生の正因については、元祖も『選択集』の「三心章」に「生死之家以疑為所止涅槃之城以信為能入」と述べられるとおり、信疑をもって迷悟の岐路とされているのである。
以 上
念仏為本
令和5年
〔題意〕
「念仏為本」という言葉は、『選択本願念仏集』劈頭標宗の文による。法然聖人が第十八願に立脚し開顕された念仏往生の本意と、宗祖の説示された信心正因とが矛盾しないこと、また能称の功をみる称名正因とも異なることを明らかにする。
〔出拠〕
『選択本願念仏集』標宗の文を正しき出拠とする。
〔釈名〕
「念仏」とは、様々な解釈が考えられるが、ただ今は称念仏名の義である。「為本」とは、「本」は根本、簡要の意味である。合釈すれば、「念仏為本」とは。「往生之業」を承けているので、浄土往生の業因は念仏以外の行ではなく、称名念仏こそが往生の根本簡要の行であり、正しき業因であるという意味である。
〔義相〕
一、『往生要集』と『選択本願念仏集』との念仏為本の相違
「往生之業念仏為本」の語は、『要集』「大文第五助念方法」第七総結要行の釈下(『聖典全書』一・一一五二)にある。ここでは往生の要となる行業として念仏を含めて七法すなわち大菩提心・護三業・深信・至誠・常・念仏・随願が説かれる。護三業は止善、称念仏、すなわち深信・至誠・常の三事を具すもの、は行善であり、他の二法はこの二善を扶助する。この七法の中心が観称融会の念仏であると『要集』当面では示されている。法然聖人は『往生要集釈』(『聖典全書』六・八一)にて『要集』所説の念仏を広・略・要の三例に分けて解釈され、この総結要行に示される念仏は他の要行の助けをかりる称名念仏ととられて要例ではなく、すなわち助念仏としての略例とみておられる。
『選択本願念仏集』は、はじめに題号が示され、直後に「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」と名号が掲げられている。この標宗の文は、「一枚起請文」に「もろもろの智者達のさたし申さるゝ観念の念にも非ず。」等(『聖典全書』六・五)とあるように、観念等の念仏ではなく、名号南無阿弥陀仏を称える称名念仏が往生業の簡要であることを説かれている。法然聖人は善導大師の就行立信釈中の称名正定業を承けて、『選択本願念仏集』三選の文には「正定之業者即是称仏名。称名必得生。依仏本願故。」(『聖典全書』一・一三二四)と。第十八願に立脚して仏名を称することが浄土に往生する正定業であるとされ、この本願念仏を選択本願念仏と示す。阿弥陀如来が凡夫を真実報土に往生させるために諸行法を選び捨て、名号法を選び取られた、如来選択の行であるとして、劈頭の標宗の文において説示されている。このように聖人は、第十八願に立脚して念仏往生の法義をたてられるので、『要集』当面では他の法の助けをかりる助念仏の意である「往生之業念仏為本」の語を、『要集』序文(『聖典全書』一・一〇一三)の意より窺い、要例の意として『選択本願念仏集』の劈頭に割注として示されており、体は名号南無阿弥陀仏である。
「為本」と「為先」
標宗の文には、「念仏為先」と「念仏為本」との二系統がある。法然聖人のご自筆の標宗の文が記された廬山寺蔵草稿本や当麻寺往生院蔵写本等は「念仏為先」となっている。一方、宗祖が付属された本は「化身土文類」後序に「〈選択本願念仏集〉内題字、并《南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本》与〈釈綽空〉字、以空真筆、令書之。」(『聖典全書』二・二五四)とあるように。法然聖人にご自筆で「念仏為本」とお書きいただいている。「為先」について聖光房弁長は「第一之行」(『浄土宗全書』七・八四)と釈し、良忠は「非云前後、往生行中念仏最要。」(同七・一九〇)と釈されていることから、「為先」と「為本」とは同義である。
一、法然聖人の信心と念仏の関係性
行行相対〔諸行に対する称名「行中摂信」〕
『選択本願念仏集』は、浄土宗一宗の独立を宣言された立教開宗の書である。各宗に帰属する寓宗としての浄土教ではなく、如来選択の本願念仏一行によって、凡夫が真実報土である浄土に往生する法門として開宗されたのである。聖人当時の仏教では凡夫入報は許されていなかった。まず、聖人は「二門章」において『安楽集』所説の聖浄二門判に基づき釈迦一代の仏教を聖道門と浄土門とに分け、末法の時代に機根の劣ったものの仏道は浄土三部経所説の浄土門のみであることを明らかにされる。通途の仏教では教・行・証の三法で各宗の教義をあらわされるが、法然浄土教の法義をこの三法で窺うと浄土三部経という教位に基づき、称名念仏一行という行によって、阿弥陀仏の浄土に往生するという証の法義となる。聖道諸宗の諸行による成仏に対し、念仏一行を行行相対して示されている。「二行章」においては、善導大師の「散善義」所説の就行立信釈等を承けて、諸行を廃捨して称名念仏こそが本願にかなった往生の正定業であることを明かし、さらに「本願章」において称名念仏が如来選択の本願の行であることを勝易の二徳より明らかにされている。この称名念仏は、「三心章」の。標章に「念仏行者必可具足三心之文」(『聖典全書』一・一二八六)とあり、また私釈に「三心者是行者至要也」(『聖典全書』一・一二九七)とも釈されるように、必ず三心を具足する信具の念仏であることがわかる。よって行行相対の念仏は、行中摂信された念仏なのである。
信心と念仏の関係性〔信疑決判の文や『黒谷上人語灯録』の文〕)
「三心章」には、迷悟の岐路を本願の信疑をもって明らかにする信疑決判を示される。『語灯録』にも同様の説示があび、『往生大要抄』には、「かのくにゝむまるゝ事は、すべて行者の善悪をゑらばず、たゞほとけのちかひを信じ信ぜさるによる。」(『聖典全書』六・四一九)と、往生の可否は信か不信かによって分かれると示される。さらに同抄には信とは無疑心であるとも示されている。信心の重要性に関して、『七箇条の起請文』には「浄土宗の大事は三心の法門にある也。」(『聖典全書』六・四五四)とあり、念仏申す時の信心については、「阿弥陀ほとけの法蔵菩薩のむかし、五劫のあひだ、よる・ひる心をくだきて案じたてゝ、成就せさせ給ひたる本願の三心なれば、あだあだしくいふべき事にあらず。」(『聖典全書』六・四五八)と、阿弥陀仏が成就された本願の三心、つまり他力信心の義が示されている。そして『念仏往生要義抄』にも「たゞ他力の心に住して念佛申さば」(『聖典全書』六・四四五)と、他力の心に住した念仏が示されている。このように選択本願念仏とは信具の念仏である。『語灯録』には本願を信じて南無阿弥陀仏と申すべしとのお示しが多いことには注意が必要である。また、『念仏往生要義抄』には自力・他力が問題にされ、能称の功をみない他力の念仏であることがわかる。われら凡夫の往生の根拠は、阿弥陀仏の本願力にのみある。とくに念仏往生が誓われた第十八願の願心を疑いなく受け入れることが重要なのである。したがって法然聖人が説示された選択本願念仏は他力念仏であり、称功をつのる自力の称名念仏とは異なり、能称の功をみる称名正因とは相違する。
一、宗祖の「念仏為本」の相承と、信心正因
まず、建長本(『尊号真像銘文』末)の標宗の文の釈には、「(南無阿弥陀仏往生之業念仏為本》といふは、安養浄刹の往生の正因は念仏を本とすとまふすみことなり。正因といふは、浄土へむまるゝたねとまふすなり。」(『聖典全書』ニ・六四〇)と、念仏が往生の正因であると法然聖人の法義がそのまま継承されている。これに対して正嘉本には、建長本の説示を受けながら「正因といふは、浄土にむまれて仏にかならずなるたねとまふすなり。」と、念仏は往生のみならず成仏の正因であることも明示して宗祖義が開顕されていることがわかる。また正嘉本の信疑決判の釈でも、「信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。」(『聖典全書』二・六四三)と、法然聖人が迷悟の岐路を本願の信疑をもって示された信疑決判や、念仏の自力・他力の分かれ目を信によって顕示された法義を承け、宗祖はそれを他力廻向の視点より捉え直し、信心こそが正しく涅槃の真因である、つまり信心が正因であることを明らかにされたのである。したがって、念仏為本と信心正因とは矛盾するものでも相違するものでもない。