廃助傍義

2022(令和4)

【題意】

『無量寿経』三輩段には、念仏の他に諸行が往生の行として説かれている。これについて源空聖人が、『選択集』「三輩章」で廃助傍の三義をもって廃立に帰するとされた義を窺い、宗祖における相承とその正意を明らかにする。

【出拠】

『無量寿経』三輩段、『選択集』「三輩章」

【釈名】

「廃」とは、廃捨の意である。念仏易行の諸行を廃捨して、念仏の一行を立てることを廃立という。
「助」とは、助けるの意である。念仏を助ける助成の意で、これに「同類の善根」と「異類の善根」がある。
「傍」とは、かたわらの意である。念仏に対して、往生の傍行としての諸行をいう。

【義相】

 源空聖人は、『無量寿経』三輩段に示される念仏と諸行との関係を、『選択集』「三輩章」で解釈される。三輩ともに「一向専念無量寿仏」等とあり、「一向」とは、「それのみ、ひたすら」という意味で、他の行を兼ねないことであり、本願では念佛のみが誓われている。では、なぜ念仏の他に捨家棄欲等の諸行を説かれるのか。その理由が説明された私釈には、『観念法門』を引用して、諸行は機類の別を示しているのであって、三輩ともに念仏して往生を得ると解釈されている。

さらに、廃・助・傍の三義を挙げている。第一の「廃」とは、諸行を廃して念仏を立てるために、諸行が説かれているという廃立の義である。第二の「助」とは、正業の念仏を助けんがために諸行を説くとする助成の義である。第三の「傍」とは、念仏と諸行の二類の機について各三品を分けて、念仏往生を説くことを正とし、諸行往生を説くことを傍とする傍正の義である。

このうち源空聖人は、「もし善導によらば、初め(廃立)をもつて正となす」とされる。『観経疏』「散善義」には、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と、第十八願に基づく称名念仏をもって「立」とし、諸行は非本願の行であるから「一向」とはいわず所廃とされている。三義は、「一向」の言に依ってこれを設けるため、「おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり」とされる。

次に、助成の義とは、「念仏を助成せんがためにこの諸行を説く」とあるように、「正」である念仏を諸行をもって「助」けるというあり方である。善導大師と源信和尚の意により、「同類の善根」によって念仏を助ける場合と、「異類の善根」によって念仏を助ける場合の二意が説かれている。その助業とは一向に念仏を修せんための行とされる。 また、傍正の義は、念仏を「正」、諸行を「傍」とし、念仏往生と諸行往生を並べ説くが、詳しい説明はない。 以上、源空聖人は、廃立の義を「正となす」と位置づけたが、後の浄土異流では、念仏以外の諸行の扱いに異なる理解がなされた。

宗祖においては、「行文類」に『選択集』三選の文を引用して、諸行を廃捨して念仏一行を立てられる。『尊号真像銘文』には、この三選の文を解釈されて、源空聖人が傍らにせよと述べられた助業を、「助業をさしおくべしとなり」と言い替えて明確に廃立を示されている。宗祖は、源空聖人の廃立の義を相承するのである。 さらに、宗祖は、「真仏土文類」の末に「しかるに願海について真あり仮あり」と、願海に真仮をみられている。また、行信についても、「行文類」の末に「おほよそ誓願について真実の行信あり、方便の行信あり」と示されている。よって、諸行を並べ説く三輩段は、「化身土文類」には第十九願成就として捉えられており、観経隠顕釈には、第十九願を釈して「この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す、この要門より正・助・雑の三行を出せり」と述べて、弘願他力の念仏を除いての行は、方便仮門の行とされる。

法に真仮があるのであるから、機にまた諸行往生の機、自力念仏の機、他力念仏の機の不同がある。つまり、仏の随自意の教法に対して随他意の教法があるのは、真実に背く者を真実に調機誘引するためであり、その機根に応じて仏が説かれた方便権仮の教法である。したがって、宗祖は、釈迦如来が「誘引」「勧化」され、阿弥陀仏が「普化」「悲引」されたことを、第十九願については「仮令の誓願、まことに由あるかな」と述べ、第二十願についても「果遂の誓い、まことに由あるかな」と述べられている。

このような領解から、先哲は宗祖における廃助傍義を種々論じられている。今は二説を示す。一説は、上輩の文に諸行と念仏とを離して並べ説くのは、傍正の出拠とし、中下輩の中に「まさに無上菩提の心を発して」と、「当」の字をもって諸行と念仏との二法を貫いて説くのは、一機の上の助正の出拠とし、三輩を通じて同じく「一向」と説くのは廃立の出拠とする。これは三輩段の文言に基づいて、念仏と諸行の関係を論じたものである。

もう一説は、廃立は選択本願をあらわす第十八願に基づき、助正は第二十願に基づき、傍正は第十九願・第二十願を並べ取るものとされる。こちらは生因三願によって、それぞれ安心・行儀・教相の面から関連を論じたものである。 尚、獲信後の助正の義について、相続報恩の行儀を顕した弘願助正説は、信後の行者の用心につけば助正の別はなく、体徳から助正の別があるとする説である。

【結び】

 三輩段には、念仏の他に諸行も説かれているが、源空聖人はその説意に廃助傍の三義を立て、廃立の義を正とされる。 宗祖は、源空聖人の廃立の義を相承し、三義の分斉を解して願海真仮を開顕され、諸行が説かれた仏意を明確にされている。
以上

発遣招喚

平成24年

〔題意〕

「散善義」回向発願心釈の二河譬に説かれている発遣と招喚の関係について窺い、発遣の意は、要門を廃して弘願の法を勧めることであって、二尊一致して、弘願の法を勧められていることを明らかにする。

〔出拠〕

「玄義分」の序題門には、

「仰いでおもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎す。かしこに喚びここに遣はす、あに去かざるべけんや」(『真聖全』一 ・四四三)
とあり、「散善義」の回向発願心釈には、
「仰いで釈迦発遣して指へて叫方に向へたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命已後かの国に生るることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんと喩ふるなり」(『真聖全一・五四一)
とある。また、『浄土文類聚鈔』には、
「仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚によりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」(『真聖全』二・四五二、『聖典全書』二・二七四)
とある。

〔釈名〕

「発遣招喚」の語は、「玄義分」序題門の文、及び「散善義」回向発願心釈の「釈迦発遣して指へて西方に向へたまふ」「弥陀の悲心招 喚したまふ」等に拠る。このうち、「発遣」とは、釈尊が阿弥陀仏の願力の道を行けと勧め遣わす意であり、釈尊の教法である。また、「招 喚」とは、阿弥陀仏が浄土に来たれと招き喚ぶ意であり、本願招喚の勅命である。

〔義相〕

 「玄義分」の序題門(『真聖全』一 ・四四三)には、「娑婆の化主その請によるがゆゑに、すなはち広く浄土の要門を開く、安楽の能人 は別意の弘願を顕彰す」とあり、二尊二教の意であるが、続いて、「阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざることなし」との経意を示 して、阿弥陀仏の弘願他力による往生を明らかにし、「仰いでおもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎す。 かしこに喚びここに遣はす、あに去かざるべけんや」と述べて、発遣・招喚を説いていることから、釈迦・弥陀二尊は、一致して弘願の法を勧めていると窺う。
 その意を二河譬から窺うに、それは、先の「玄義分」の序題門並びに「散善義」の回向発願心の第二釈を受けて、広く喩顕されたものである。すなわち、「散善義」には、「また回向発願して生ぜむと願ずる者は、必ず須く決定真実心の中に回向し願じて、得生の想を作すべし。此の心深信せること金剛のごとくなるに由りて」(『原典版』七祖篇・五二六)とあり、「信文類」では、「また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ」(『真聖全』二・五四、『聖典全書』二・七四)と示して、回向発願心は、深心の義別であり、弘願の信相をあらわしたものであると明らかにされる。したがって、二河譬は、総じては三心、別しては深心の相を喩顕するものである。
 また、譬喩の文のはじめには、「いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もって外邪異見の難を防がん」(『真聖全』一・五三九)とあり、合法の文の終わりには、「仰いで釈迦発遣して指へて西方に向へたまふことを蒙り、また弥陀の悲心をもって招喚したまふによりて、いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて」とある。したがって、釈尊の発遣は、弥陀の招喚と同じく、弘願の法を勧められるのであり、また、異学・異見・別解・別行の人等に惑わされない金剛不壊の信相を示すものであって、仮に通じる義はない。
 この他、『大経』の流通分には、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」(『真聖全』一・四六)とある。すなわち、出世本懐の経である『大経』は、本願名号のはたらきによって大利を得ると開示しているので、釈尊の発遣は弥陀の招喚と一致する。また、『観経』の華座観においても、釈尊は「除苦悩法」(『真聖全』一・五四)と説いて黙し、応声即現に譲られていることから、要門の法を廃して弘願の法をあらわしていると窺う。
 宗祖は、「散善義」の第五深信について、『愚禿鈔』に註釈を施し、利他信心をあらわすものであるとし、三随順をもって、真仏弟子であると示される。すなわち、『観経』所説の釈尊の教と『小経』所説の諸仏の意に随順することは、『大経』所説の弥陀の本願に随順するものであると示し、三経一致して、弘願他力の法を説き勧めていると明らかにされるのである。

平生業成

平成14年

〔題意〕

 浄土真宗においての平生業成の意義を明らかにし、臨終来迎に簡ぶ旨を鮮明にする。

〔出拠〕

『御文章』一帖目第二通(『真聖全』三・四〇四頁)

 さればこの信をえたる位を、『経』(大経・巻下)には「即得往生住不退転」と説き、『釈』(論註・巻上意)には「一念発起入正定之聚」ともいヘリ。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。
『浄土真要鈔』(『真聖全』三・一二三頁)
 親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。
その他
『口伝鈔』
『改邪鈔』等がある。

〔釈名〕

 「平生」とは、尋常の時節のことであって、臨終に対する語である。「業成」とは、業事成弁・業因成就の義である。よって、「平生業成」とは、平生の聞信の一念に、得果の因が衆生の上に成就することをいう。よって、義からいえば、信一念業成である。

〔論点〕

(一)平生業成の名義

 平生業成の平生とは、尋常の時節のことで、臨終に対する義である。従って平生業成とは、臨終業成・臨終来迎に対する義である。
 それでは、臨終来迎の義とはどのようなものか。
 臨終とは命終の時を指す。来迎とは、仏・菩薩の来迎のことである。これを合釈すれば、臨終来迎とは平生に積んだ善行による往生を確信するために、臨終の時に仏・菩薩の来迎を要期することである。
 「来迎」それ自体は、弘願義において説かれている。
 『観経』に「無量寿仏、化身無数、与観世音・大勢至、常来至此行人之所。」とある常来迎、『玄義分』の「釈迦此方発遣、弥陀即彼国来迎」の文中、弥陀の招喚を来迎と名づけてある来迎、さらに『一念多念文意』の「恒願一切臨終時、勝縁勝境悉現前」の釈などにある勝縁勝境の現前する来迎、また『唯信鈔文意』に説かれている還来待迎の来迎などがそれである。しかし、ここでいう来迎は「臨終来迎」であり、諸行往生の者が要期する臨終来迎のことである。

(二)平生業成の理由

 浄土門内において、平生業成を説く教義的理由は、
①生因三願の見方の相違を明確にする。浄土異流では、生因三願に真仮を分かたず、来迎は第十八願の利益であるとみる。これに対して、宗祖は生因三願に真仮を分かち、第十八願を真実の願とされ、臨終来迎については『末灯鈔』(『真聖全』二、六五六頁)に

 「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに 臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。」
と明示されている。
②第十八願の弘願法門は信益同時であることを開顕されたのである。すなわち、信一念のとき往生決定であり、即時に摂取不捨の利益にあずかり正定聚に住するのである。この信一念のところに往生の業因が成就することを平生業成というのである。
 ところで、平生業成と現生正定聚は、共に信益同時の利益を顕わすことにおいては同じである。しかし、平生業成は臨終来迎・臨終業成に対する言葉であり、正定案は邪定聚・不定聚に対する決定往生の者の位態を顕わす言葉であり、その所顕を異にするところである。

(三)平生業成の根拠

 本願の文に「若不生者」とあり、成就文では「即得往生 住不退転」と説かれている。本願の文では、衆生往生の因が三心とされている。しかし、成就文ではこれを「聞其名号 信心歓喜」と述成されている。この聞信の一念に往生の業因が成就することを平生業成の根拠とするのである。従って、たとえ時間的に聞信の時が臨終であっても平生業成なのである。

(四)平生業成義の相承

平生業成の義は、本願成就文の聞信一念即得往生に基づき、宗祖の釈義に鮮明に示されるところであるが、「平生業成」という名目は、覚如上人の『改邪鈔』、存覚上人の『浄土真要鈔』に用いられ、蓮如上人にいたって徹底して明示されたものである。

以 上

報化二土

平成17年

〔題意〕

宗祖は浄土には報土(真土)と化土とがあると判別されたのであるが、その報化二土弁立の教義の特色を明らかにする。

〔出拠〕

・『往生要集』巻下末(真聖全一・八九〇頁)

衆生の起行にすでに千殊あれば、往生して土を見ることまた万別あるなり。もしこの解を作さば、諸経論のなかに、あるいは判じて報となし、あるいは判じて化となすこと、みな妨難なし。ただ諸仏の修行、つぶさに報化の二土を感ずることを知れ。

・「行巻」(真聖全二・四五頁)

専雑執心判浅深 報化二土正弁立

・「真仏土巻」(真聖全二・一四一頁)

それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。(中略)すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。

その他、『往生要集』巻下末「報化得失」、「真仏土巻」、「化身土巻」、『浄土文類聚鈔』、『愚禿鈔』、『三帖和讃』等の文。

〔釈名〕

「報」とは報いるの意であり、選択本願によって酬報した真実報土のことである。「化」とは化現の意であって、未熟の機の感見に応じた方便化身土のことである。「二土」とは真実報土と方便化土の二つの土(真土・化土)のことである。

〔義相〕

先ず、『浄土三部経』と真宗七祖の浄土から述べる。『大経』の胎化得失の中には、明信仏智の者は自然に化生するが、疑惑仏智の者はかの宮殿に生まれて、寿五百歳つねに三宝を見たてまつらず等と詳しく説かれて、仏智を信じて浄土往生を願うべきことがすすめられている。又『観経』は阿弥陀仏の九品の浄土が詳しく説かれている。これらをうけて宗祖は三経差別門と三経一致門とを示され、『観経』と『小経』にそれぞれ顕彰隠密の義が示されるということになるのである。
又、真宗七祖の浄土については「真仏土巻」の中に引文されているものによって示すと『浄土論』の中に「観彼世界相、勝過三界道、究竟如虚空、広大無辺際」等の文とか『論註』巻上の「この性のなかにおいて四十八の大願を発して、この土を修起したまへり。すなはち安楽浄土といふ」等の文が引文されている。又「玄義分」の「是報非化」の語や「西方の安楽阿弥陀仏はこれ報仏報土なり」等の文や「定善義」の「西方寂静無為楽」等の文や『法事讃』巻下の「極楽無為涅槃界」等の文が引文されているが、ここでは七祖の仏身仏土論を述べるところではないのでこれ以上はふれない。ただ「報化二土」の語は『往生要集』巻下末に出てくる語であり、ここに源信僧都の釈功があることは明らかである。
さて次に、宗祖の報化二土について述べる。宗祖の報化の義は『往生要集』巻下末の報化二土や報化得失からの教示によって、「化身土巻」要門釈に報化得失の文が引文されている。又『高僧和讃』などでも讃じられている。そこで先ず、真実報土からいうと、「行巻」に「往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり」といい、「真仏土巻」に「つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち、大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願これなり」といわれている。又「しかれば、如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す」といい、「それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。(中略)選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり」等と述べられている。真仏は無辺光仏・無礙光仏・諸仏中の王・光明中の極尊・帰命尽十方無礙光如らい等と示されている。又真土は無量光明土・究竟如虚空広大無辺際・真仏真土等と示されている。真仏真土は身土不二であり、第十二・十三願の両願によって酬報された国土であり、それは方即無方・辺即無辺・数即無数の絶対界である。
又、「化巻」のはじめに「化身化土」を定義して「つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり」といわれている。又、小経隠顕の箇所に「仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり」といわれている。あるいは「真仏土巻」の真仮対弁の箇所に「まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく」ともいわれてあり、衆生の自力の行業がさまざまであるから、うけとるところの浄土の果もさまざまである。
最後に化土存在の理由について述べる。化土は種々の名で呼ばれている。含華・胎生・胎宮・辺地・疑城・懈慢界等とも呼ばれている。すべて化土の異名である。名の異なった別の願土があるということではない。この中、含華は華の中につつまれて一定の間、真実の三宝を見聞することができないのである。胎生は含華の状態が母の胎内に子を宿している様なものである。胎宮は宮殿の想に住している様な状態。辺地(辺界)は化土を貶した名であり、浄土の中から離れた土地である。そしてここまでは果の上の名称である。また、疑城は仏智を疑う者の行く浄土である。懈慢界(懈慢国土)は信機信法の二種深信の欠けた人がいく浄土であって、この疑城も懈慢界も共に衆生の因の上からいったものである。疑惑仏智や信罪信福を誡めて明信仏智や信機信法を勧めているのである。第十八願の他力信心のない人が、ただちに真実報土に往生することは不可能である。そこで阿弥陀仏の悲願のてだてとして、この土で自力信にとどまっている人を化土に往生させ、そこで仏智疑惑を誡めさせ、化土から離れしめて真実報土に往生させようとする如来の慈悲心がはたらいているのである。結局は不純な願生者をして真実報土に帰入せしめんがための弥陀のてだてというべきであり、これによって真仮の分斉を明らかにしようとしているのである。

本願一乗

平成21年

〔題意〕

成仏の法は本願一乗のみであって、聖道門及び浄土門内の要門・真門を権仮方便として、本願の一法のみが真実の法門であることを明らかにする。

〔出拠〕

「行文類」一乗海釈、『愚禿鈔』、『一念多念文意』文は省略する。

〔釈名〕

「本願」とは、第十八願のことである。「一乗」の「一」とは、唯一無二の意である。「乗」とは、運載の意で衆生を大菩提に運載する意味である。つまり、「本願一乗」とは、第十八願法、すなわち弘願法のみが衆生を大菩提に運載する唯一無二の法であるという意味である。

〔義相〕

(一) 一乗の義を明かす

①所至の究竟
一乗法とは、究竟の仏果を所至とするものでなくてはならない。何故なら、究竟を所至としない乗は、究竟に至るためには、他の乗を必要とし、これでは一乗といえないからである。弘願法の所至は、「証文類」に「利他円満の妙位、無上涅槃の極果」と示され、それは第十一願所誓の滅度である。宗祖は滅度の転釈の中、「無為法身」を出されるが、これが一乗海釈中の「究竟法身」に他ならない。これはまた、『唯信鈔文意』に、「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」と釈される、いわゆる法性法身である。宗祖は、滅度の転釈を「一如」で結ばれ、「しかれば、弥陀如来は如より来生して」と、主伴同証すなわち衆生の所証と弥陀の所証とが一つであることを示される。そして、「行文類」引用の『往生礼讃』に、「諸仏の所証は平等にしてこれ一」と説示されるように、究竟の仏果は、一切の仏において平等であり、一である。これが、一乗海釈の「異の如来ましまさず、異の法身ましまさず」と釈される意である。
なお、一乗とは大乗であると示されるが、大乗に対する小乗とは声聞乗・縁覚乗の二乗を意味し、その所至は阿羅漢・辟支仏であり、究竟の仏果ではないからである。その大乗とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗の四乗の中の仏乗のことである。
後に二乗・三乗と出されるが、聖道法を菩薩乗として二乗に加え、三乗とする。二乗の所至が究竟の仏果でないのは当然であるが、極重の悪人にとっては、聖道法によっては究竟の仏果に至ることはできず、結局、一切衆生を善悪賢愚の隔てなく運載し、真実報土に往生せしめ、究竟の仏果を得せしめるのは弘願法のみであり、これを誓願一仏乗という。すなわち、

大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。

と釈される意なのである。

②本願の力用
一乗法は、一切の機を運載するものでなければならない。何故なら、その法によって運載されない機が存在すれば、その機のために他の乗を必要とするからである。弘願法の所彼の機は、偈前の文に、「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」と示される。海の釈に「凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる」、「願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや」と、本願一乗海は、凡夫・聖者、逆謗闡提の雑善・無明を転ずるといわれ、それゆえ、そこには二乗の雑善、人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の自力行・自力心の存在が許されないと説かれるのは、一切の機を運載する法であることを示しているのである。

(二)念仏と諸善との比較

一乗海釈では、『大経』所詮の教法である第十八願法を念仏であらわし、八万四千の法門を『観経』顕説の要門法に摂めて諸善であらわし、念仏と諸善とが比校対論されている。また、弘願法に運載される他力の機と、要門法によって成仏道を歩む自力の機とが比校対論されている。
すなわち、教について念仏と諸善、機について自力の機と他力の機とを比校対論することによって、誓願一仏乗があらゆる法門に超え勝れた唯一無二の法であることが明らかにされているのである。なお、教について「絶対不二の教」といわれるが、これは、相対を絶した絶対ではなく、他の教法から抜きん出て、比肩するものがないほど勝れた唯一の教法であるとの意である。機について「絶対不二」がいわれるのも同じ意趣である。

本願一乗

2022令和4

【題意】

通仏教の一乗義に対し、宗祖が「本願」を付して「本願一乗」とされた義を窺い、一切衆生を究竟成仏させるのは、弥陀の弘願法のみであることを明らかにする。

【出拠】

行文類」一乗海釈、『愚禿鈔』等

【釈名】

「本願」とは、第十八願のことである。
「一乗」の「一」とは、唯一無二の意である。「乗」とは、運載の意で、衆生を涅槃に運載する意味である。
つまり、「本願一乗」とは、第十八願法、すなわち弥陀の弘願法のみが衆生を涅槃に運載する唯一無二の法であるという意味である。

【義相】

本願とは、仏の誓願成就のうえでの因位の誓願をいうが、阿弥陀仏の四十八の誓願は、第十八願をもって根本とし、衆生を究竟成仏せしめるのは第十八願の弘願法のみである。よって、宗祖は本願を「誓願一仏乗」と示されている。

その一乗の「一」とは、無二の義であるが、無二とは数量を超えて一切を包含して比対するもののない絶対をあらわしている。「行文類」には、一乗の力用を明かして、「一乗を得るは阿耨多羅三藐三菩提を得るなり」とされ、それは「涅槃界なり(乃至)究竟法身なり」と、空間と時間の制約を超えた「無辺不断」の徳を完成せしめることといわれる。すなわち、「一乗は大乗なり。大乗は仏乗なり」とあって、一乗と大乗・仏乗は、一切の衆生を分け隔てなく運載して仏果に至らしめる教法という意味で同義語である。

この「一乗」について、天台や華厳、真言の一乗は、一乗の語義を完全に満たしている教法ではなく、これを満たす法は阿弥陀仏の誓願一仏乗に外ならず、「第一義乗」ともいわれる。宗祖は、一乗に「本願」或いは「誓願」の語を加えて一乗義を展開されており、天台や華厳の一乗と区別している。なぜらならば、通途の一乗は不同はあれど全て有作の運載で自力であるが、「本願一乗」は衆生無作の運載で他力法であるからである。

また、『一念多念文意』には「本願一乗円融無碍真実功徳大宝海」と讃えて、「真実功徳とまふすは名号なり」といい、誓願一仏乗の体は、法に約していえば名号大行であり、これを領受したのが大信である。

ところで、誓願一仏乗の徳義を「行文類」一乗海釈には、「海」の字を釈して、転成の徳と、不宿死骸の徳をもって顕されている。その中で、不宿死骸の力用を挙げて、本願他力の世界には自力疑心を容れないことを不宿といい、自力不成就の死骸を完全に廃捨すると同時に、本願力は五乗を斉しく真実報土に入らしめる誓願一仏乗の徳を有することを顕されている。「大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめむとなり」といわれているように、二乗三乗を超えて、二乗・三乗の機をも涅槃に至らしめる教法が一乗である。

この二乗三乗の理解について古来二説がある。一説には、声聞乗と縁覚乗を二乗といい、それに菩薩乗を加えて三乗とするという説。もう一説は、一乗海釈に引用された『大経』「東方偈」に、「声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし(乃至)二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり」という文によって、縁覚乗を声聞乗に収めて、声聞乗と菩薩乗とを二乗といい、それに華厳、天台等の聖道門の一乗を加えて三乗とする説である。

いま後説によるならば、通仏教の一乗である自力の法門を一括して、それらを従真垂仮された二乗・三乗を権仮方便の法門とする。親鸞聖人が、浄土門内の要真二門は勿論、自力聖道の法門も究竟成仏の法ではないといわれたことは、例えば『唯信鈔文意』に、
  しかれば、大小の聖人・善悪の凡夫、みなともに自力の智慧をもては大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆへに、この仏の智願海にすゝめ入れたまふなり。
といわれている。二乗・三乗といわれる権仮方便の法門は、従仮入真すべき暫用還廃の法門で、誓願一仏乗に調機誘引せしめる法門として施設された法門で、真の成仏法ではない。

また、親鸞聖人は聖道門について『末灯鈔』には、
  聖道といふは、すでに仏になりたまへるひとの、われらがこゝろをすゝめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。
といい、「化身土文類」にも、聖道門を指して、「すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり」といわれる。「利他教化地」と呼ばれる仏・菩薩が開示される法門である以上、誓願一仏乗に勧め入らしめることを、本懐とされていることはいうまでもない。

【結び】

法蔵菩薩の誓願は、真実功徳を因願かけて開示し、本願名号による救いが説かれる。衆生は、その名号を聞信して往生成仏せしめられ、宗祖はこれを「誓願一仏乗」「本願一乗」といわれ、究竟成仏の法門とされる。

したがって、通途の一乗は自力成仏の法門で、権仮方便の法門とされたのが宗祖の領解である。究竟成仏の法門は弘願法のみであるので、通途の一乗に簡んで本願を付して「本願一乗」といわれるのである。

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